バルカンでの戦闘とは? わかりやすく解説

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バルカンでの戦闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 06:59 UTC 版)

クリミア戦争」の記事における「バルカンでの戦闘」の解説

1853年7月ロシアオスマン帝国宗主権の下で自治認められていたモルダヴィアワラキア現在のモルドヴァルーマニア一部)に進軍したあくまでも解放目的としていたことからロシア側は宣戦布告なしに行ったが、戦闘になることを回避したオスマン帝国側はドナウ川南岸に軍を進めたものの、再三わたって撤退勧告繰り返すとどめた。しかし、9月最後通牒無視されたことから、オスマン帝国軍10月宣戦布告なしにドナウ渡河し、ブカレスト郊外の数箇所前哨拠点攻撃したことをきっかけ開戦となった装備の上勝っていたロシア軍は、砲兵部隊ドナウ河岸に集中させてオスマン帝国軍河川艦隊を破ると、勢力盛り返してドナウ越えて南下した。さらにギリシャ義勇兵北上し手薄になっていたオスマン帝国領内のマケドニアブルガリアロシア援助受けたオスマン帝国組織叛乱煽動したため、オスマン帝国軍バルカン半島挟撃される形に追い込まれた。この状況慌てたイギリスフランスギリシャ撤退求めるが、中央政府権威大きくないギリシャでは戦線身を投じる義勇兵が後を絶たなかった。 ついにフランス巡洋艦派遣してギリシャ義勇兵への武器積んだ輸送船テッサロニキ撃沈しイギリスアテネ港湾ピレウス封鎖して圧力をかけたため、ギリシャ義勇兵援助打ち切らざるをえなくなった。これにより反オスマン帝国掲げた叛乱各地鎮圧され、特にロシアが力を注いだブルガリア反対派組織徹底的な弾圧受けて壊滅至り、再び盛り返したオスマン帝国軍ロシア軍ドナウ以北にまで押し戻すが、両軍ともに決定力に欠いたため、戦線膠着状態に陥った

※この「バルカンでの戦闘」の解説は、「クリミア戦争」の解説の一部です。
「バルカンでの戦闘」を含む「クリミア戦争」の記事については、「クリミア戦争」の概要を参照ください。

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