バック川遠征
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1832年の時点で、北極探検家ジョン・ロスの消息は1829年以降途絶えたままであり、捜索隊の派遣が検討されていた。バックは、グレートスレーブ湖まで毛皮の交易路をとり、そこから「グレート・フィッシュ川 (Great Fish River)」沿いに北東へ進んで、ロスがいると思われた場所へと進む計画を提案した。この「グレート・フィッシュ川」は、まだ白人によって確認されたことはなかったが、その存在はインディアンからの情報で知られていた(この川は後にバック川 (Back River) と命名された)。1833年2月、バックはイングランドを発ち、8月には、ハドソン湾会社のジョージ・マクラウド (George McLeod) によってグレートスレーブ湖の東端に築かれていたリライアンス砦 (Fort Reliance) の越冬施設に達した。バックは8月29日に川の位置を確認した後、冬に備えて砦に戻った。1834年3月、バックは、ロスが既にイングランドに帰還したという知らせとともに、ロスが発見したキングウィリアム島から、フランクリンが発見した(ケント半島 (Kent Peninsula) の)ターンアゲイン岬 (Point Turnagain) までの沿岸を探険せよという指示を受け取った。1834年6月7日に出発したバックは、アーティラリー湖 (Artillery Lake) とクリントン=コールデン湖 (Clinton-Colden Lake) を経て、6月28日に川に到達した。バックは不毛の地を川沿いに東進し、83カ所で急流を越え、1カ所では船を陸路で運んだ。バックは、7月23日にチャントレー湾 (Chantrey Inlet) で海水に達した。バックはこの湾内を探険し、北方にキングウィリアム島を確認したが、英雄的とは言えない、しかし賢明な決断をして引き返した。バックは、1834年9月27日にリライアンス砦へ帰還し、1835年9月8日にイングランドに帰国した。この遠征に加わっていた博物学者リチャード・キング (Richard King) は、ベックの遠征報告に気象学と植物学の付録を寄稿し、さらに自らも2冊本の遠征記を執筆した。 1838年、王立地理学会は「グレート・フィッシュ川」の探険の業績に対して、バックに創立者メダルを贈った。
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