バウアーの死の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 14:48 UTC 版)
「ヴィルヘルム・バウアー (ドライバー)」の記事における「バウアーの死の影響」の解説
バウアーが駆ったレース仕様のダイムラー・フェニックスは、馬車のように重心が高く、全長は短く、重さ320㎏の重いエンジンが車体前部に積まれ、馬力は当時としては強力な28馬力も発生するというもので、事故は起こるべくして起こったと考えられた。そのため、事故後、同社の設計には厳しい批判が加えられることになった。バウアーの死はダイムラー社に衝撃を与え、同月に同社の創業者の一人であるゴットリープ・ダイムラーが死去していたこともあり、ダイムラー社のエンジニアたちはレース用車両の更なる開発には及び腰となる。 ダイムラー・フェニックスの発注者であるイェリネックはあきらめず、さらなる開発を求めた。その結果、マイバッハとパウル・ダイムラーが協働し、1900年末に完成したのがダイムラー・メルセデス(メルセデス・35HP(英語版))である。同車は翌1901年のニース・スピードウィークを席巻し、最初の「メルセデス」として知られることになる。 1903年のニース・スピードウィークで開催されたラ・テュルビー・ヒルクライムでは、バウアーが死亡事故を起こしたのと同じコーナーで、エリオット・ズボロウスキー(英語版)が死亡事故を起こし、これにより、同レースは1904年から1908年まで開催が中止された。ラ・テュルビー峠の事故が起きた地点には、バウアーとズボロウスキーの悲劇を記念した飾り額が置かれている。
※この「バウアーの死の影響」の解説は、「ヴィルヘルム・バウアー (ドライバー)」の解説の一部です。
「バウアーの死の影響」を含む「ヴィルヘルム・バウアー (ドライバー)」の記事については、「ヴィルヘルム・バウアー (ドライバー)」の概要を参照ください。
- バウアーの死の影響のページへのリンク