ハプスブルク=ロートリンゲン家時代
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「トスカーナ大公国」の記事における「ハプスブルク=ロートリンゲン家時代」の解説
ハプスブルク=ロートリンゲン家の最初の大公はフランチェスコ2世(在位:1737年 - 1765年)である。ドイツ名をフランツ・シュテファンといい、元はロレーヌ公であったが、神聖ローマ皇帝カール6世の女子相続人マリア・テレジアとの婚姻にあたり、ロレーヌの隣国であるフランスが異議を唱えた。外交交渉とポーランド継承戦争の結果、フランスが婚姻を承認する代わりにロレーヌの割譲を受け(ルイ15世の岳父スタニスワフ・レシチニスキがロレーヌ公となり、その死後はフランス王国に併合された)、フランツには代償として後継者のいなかったトスカーナ大公の継承権が与えられたのである。フランツは父方と母方の双方から、メディチ家の大公フランチェスコ1世の血を引いていた。フランツは1747年に皇帝に選出されてフランツ1世となる(トスカーナ大公位はそのまま兼ねた)。大公国はフランツの死後に次男のレオポルド1世(在位:1765年 - 1790年)が継いだ。レオポルドは皇帝レオポルト2世として即位するとすぐに次男フェルディナンド3世(1790年 - 1824年)に大公位を譲るが、フェルディナンド3世はフランス革命戦争とナポレオンの時代に遭遇することになる。 1801年2月9日、リュネヴィル条約が締結されると、トスカーナはハプスブルク家からフランスに渡った。トスカーナ大公国は廃止され、エトルリア王国が建国された。ブルボン=パルマ家のルドヴィーコ1世(1801年 - 1803年)とカルロ・ルドヴィーコ(1803年 - 1807年)が相次いで即位したが、1807年12月にエトルリア王国は廃止され、フランス帝国に併合された。その後ナポレオンが妹エリーズ(エリザ)を大公に即位させることでトスカーナ大公国は復活した(在位:1809年 - 1814年)。 1814年にナポレオン1世が失脚すると、フェルディナンド3世がフィレンツェに復帰した。ナポレオンはトスカーナ大公国領であるエルバ島に配流されたが、後に脱出して百日天下の動乱を起こしている。フェルディナンド3世に次いでレオポルド2世(1824年 - 1859年)が即位する。レオポルド2世は1859年4月27日、トスカーナ臨時政府の圧力に屈して退位し、フェルディナンド4世が登位するものの、トスカーナは国民投票の結果、1860年3月にサルデーニャ王国へ併合された。
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