ハプスブルク=ロートリンゲン家時代とは? わかりやすく解説

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ハプスブルク=ロートリンゲン家時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 08:19 UTC 版)

トスカーナ大公国」の記事における「ハプスブルク=ロートリンゲン家時代」の解説

ハプスブルク=ロートリンゲン家最初大公フランチェスコ2世在位1737年 - 1765年)である。ドイツ名フランツ・シュテファンといい、元はロレーヌ公であったが、神聖ローマ皇帝カール6世女子相続人マリア・テレジアとの婚姻にあたりロレーヌ隣国であるフランス異議唱えた外交交渉ポーランド継承戦争結果フランス婚姻承認する代わりにロレーヌ割譲を受け(ルイ15世岳父スタニスワフ・レシチニスキロレーヌ公となり、その死後フランス王国併合された)、フランツには代償として後継者のいなかったトスカーナ大公継承与えられのであるフランツ父方母方双方から、メディチ家大公フランチェスコ1世血を引いていた。フランツ1747年皇帝選出されフランツ1世となる(トスカーナ大公位はそのまま兼ねた)。大公国フランツ死後次男レオポルド1世在位1765年 - 1790年)が継いだレオポルド皇帝レオポルト2世として即位するとすぐに次男フェルディナンド3世1790年 - 1824年)に大公位を譲るが、フェルディナンド3世フランス革命戦争ナポレオンの時代遭遇することになる。 1801年2月9日リュネヴィル条約締結されると、トスカーナハプスブルク家からフランス渡ったトスカーナ大公国廃止されエトルリア王国建国された。ブルボン=パルマ家ルドヴィーコ1世1801年 - 1803年)とカルロ・ルドヴィーコ1803年 - 1807年)が相次いで即位したが、1807年12月エトルリア王国廃止されフランス帝国併合された。その後ナポレオンが妹エリーズエリザ)を大公即位させることでトスカーナ大公国復活した在位1809年 - 1814年)。 1814年ナポレオン1世失脚すると、フェルディナンド3世フィレンツェ復帰したナポレオントスカーナ大公国領であるエルバ島配流されたが、後に脱出して百日天下動乱起こしている。フェルディナンド3世次いでレオポルド2世1824年 - 1859年)が即位するレオポルド2世1859年4月27日トスカーナ臨時政府圧力屈して退位しフェルディナンド4世が登位するものの、トスカーナ国民投票結果1860年3月サルデーニャ王国併合された。

※この「ハプスブルク=ロートリンゲン家時代」の解説は、「トスカーナ大公国」の解説の一部です。
「ハプスブルク=ロートリンゲン家時代」を含む「トスカーナ大公国」の記事については、「トスカーナ大公国」の概要を参照ください。

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