ノトーリアスB.I.G.亡き後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/19 08:30 UTC 版)
「バッド・ボーイ・レコード」の記事における「ノトーリアスB.I.G.亡き後」の解説
ノトーリアスB.I.G.(ビギー)の死後、彼のアルバム「ライフ・アフター・デス」は、ビルボード誌のアルバム チャートの頂点に立った。さらに、そのアルバムから発売されたシングル曲「ヒポノタイズ」と「モ・マネー・モ・プロブレム」も、シングルチャートを制した。悲劇という要素も加わり、このアルバムは、700万枚を売り上げた。1997年のはじめ、パフ・ダディは、自身初のソロアルバムの製作に取り掛かった。その春、シングル曲「キャント・ノーバディ・ホールド・ミー・ダウン」が、ラップ、R&B、ポップチャートで1位を記録した。またビギーの死を悼んで、パフ・ダディによる賛歌「アイル・ビー・ミッシング・ユー」が発表された。その曲には、ビギーの妻であるフェイス・エバンス、10代のR&Bグループの112が参加した。この曲は12週連続でチャートのトップを飾り、1997年の夏に発売され、700万枚を売り上げた彼のアルバム「ノー・ウェイ・アウト」からの2枚目のシングルとなった。ビギーの後釜の座には、同じ年に発売されたデビューアルバム「ハーレム・ワールド」が400万枚を売り上げたメイスが付くことになる。このような立て続けの成功を収めたバッド・ボーイは、この時代に全盛期を迎えることになった。また同時期、バッド・ボーイは、ヨンカーズを拠点とするLOXの売出しを始め、数多くのバッド・ボーイの曲に客演させた後、1998年に、アルバム「マネー、パワー、リクエスト」で、彼らをデビューさせた。しかしそれほどヒットにはならなかった。このため、やがて彼らはバッド・ボーイを去ることになった。その後、バッド・ボーイは一時期の勢いを失っていく。1999年、メイスは修道士となり、突如、ヒップホップ界から引退した。2枚目のアルバムを発売したばかりの出来事であり、レーベルにとって大きな痛手となった。ブルックリン出身の若手ラッパーであるシャインが、それなりの成功を収めた。彼の持ち味である低い声とゆっくりとしたラップの流れは、ビギーを思い起こさせるところがあり、それをビギーの猿真似と捉える向きもあった。コムズ2枚目のアルバムを発売するも、前作ほどの賞賛を得ることは無かった。彼はこの後、パフ・ダディ、Pディディ、ディディと、何度も改名を行っていく。2000年代に入って、バッド・ボーイの衰退ぶりが明らかになっていく。レーベルを支えて生きた大物たちが次々とレーベルを去っていった。またレーベルに残ったアーティストたちも、売上が落ち込んでいく。バッド・ボーイの復活を目指して、次々と新作を発表し、新たなアーティストの発掘を試みるも、レーベルが望むほどの成功を収めることは、なかなか難しかった。
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