ド・クルシー家とド・レイシ家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 14:28 UTC 版)
「アルスター伯爵」の記事における「ド・クルシー家とド・レイシ家」の解説
1170年代のノルマン人のアイルランド侵攻の後、イングランド王ヘンリー2世はアイルランドにおける3つの王権伯領(英語版)をノルマン人貴族に授けた(このときに創設された王権伯は現代の歴史学者からは伯爵かロード(lord)と同等のものとされる)。「強弓」(Strongbow)のあだ名で知られるノルマン系ウェールズ人騎士ストリグイル伯リチャード・ド・クレア(英語版)(1130-1176)はレンスター伯に、アングロ・ノルマン(英語版)のサー・ヒュー・ド・レイシ(英語版)(b. 1135-1186)はミーズ伯に叙され、サー・ジョン・ド・クルシー(英語版)(1150-1219)は1181年にアルスター伯に叙された。ド・クルシーはさらにコノート卿(Lord of Connaught)に叙されると、ド・レイシ家(英語版)とは競争相手の関係になった。1181年の特許状の原本は現存しないが、19世紀に特許登録簿(英語版)(最初の特許登録簿は1201年に作成された)が研究され、ド・クルシーがアルスターを下付地として受け取ったとされる。 アルスターの面積はアイルランド全体の5分の1であり、ブリテン諸島における下付地としては最大級であるが、ド・クルシーは無許可でアイルランドにおける領地を強奪し、イングランド王ジョン(1167-1216)の怒りを買った。ミーズ伯の同名の息子ヒュー・ド・レイシ(英語版)(c.1176-1243)はド・クルシーが臣従儀礼をしなかったと告発し、ジョン王はアルスター各地のバロンに手紙を出して、領主たるド・クルシーを説得して臣従儀礼をさせなければ領地を没収すると脅した。『アイルランド王国年代記(英語版)』によると、1203年、ヒュー・ド・レイシはミーズから派遣されたイングランド兵とともにウラド(英語版)に進軍して、ド・クルシーを追放したという。このとき、Dundaleathglass(おそらく現ダウン県)で戦闘が行われ、ド・クルシーは敗れたものの自身は脱出に成功した。翌1204年、ド・クルシーはド・レイシの軍勢から攻撃を受けてティロンに逃れたものの、ド・レイシ軍はキャリクファーガス(英語版)まで追撃した。同年の聖金曜日、ド・クルシーはダウンパトリック教会(英語版)で祈っている最中に襲撃を受け、ド・レイシの兵士から武器を奪い取って13人を殺すなど奮戦したもののやがて抑えられ、イングランドに移送されてロンドン塔に投獄された。ド・クルシーの領地と爵位は没収され、ド・レイシはド・クルシーの権利がそのまま授けられる形でアルスター伯爵に叙された。このときの叙爵ではジョン・ド・クルシーが最後の戦闘の日に所有した全てのものへの所有権をド・レイシに移すことが定められたが、教会だけは君主が所有するとしたという。その後、ド・クルシーは国王と和解して、1210年頃には年金を受け取るほど信頼を回復するものの、アイルランドの領地を取り戻すことはなかった。 翌1205年にはアルスター全体がド・レイシに与えられた。ド・レイシは1210年に大逆罪で爵位を剥奪され、1226年に回復されたが、ド・レイシが1243年に死去した時点の嫡出子は娘モード1人だけだったため、モードが1264年にコノート卿ウォルター・ド・バラ(英語版)と結婚すると、ド・バラは妻の権利によりアルスター伯爵に叙された。
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