ドレッドノートとイギリス海軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 15:04 UTC 版)
「偽エチオピア皇帝事件」の記事における「ドレッドノートとイギリス海軍」の解説
20世紀初頭のイギリスでは、イギリス海軍の艦隊は帝国の礎の一つであり、その国力と富の象徴とさえ考えられていた。本や芝居、大衆文化の中では、イギリス海軍は島国であるイギリスの守護者であり、最初の防衛線として描かれていた。1909年の『オブザーバー』紙の社説では、イギリス海軍の優位性を「世界の平和と発展のための最高の安全保障」と表現している。 ドレッドノートは、1906年に就役したイギリス海軍の戦艦である。ドレッドノートの武装、速力、強度は、それまでに建造されたどの艦よりも優れていた。歴史家のヤン・リューガーによれば、この艦は進水時から文化的なシンボルとしての意味を持ち、歌や広告を通じて国民の意識に浸透していったという。1909年のロンドン寄港時には推定100万人がその到着を見届け、1910年には「紛れもない象徴的な地位を持つ文化的なアイコン」になっていた。文化史家のエリサ・ドカーシーは、エドワード朝時代(英語版)においてドレッドノートは「神聖に近い性質」を持っていたと評している。 1910年2月の時点において、ドレッドノートの艦長はハーバート・リッチモンド(英語版)だった。ウィリアム・メイ(英語版)提督が本国艦隊司令長官であり、ドレッドノートはメイ提督が乗艦する本国艦隊旗艦だった。
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