トレードを前提とした入団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:41 UTC 版)
「荒川事件」の記事における「トレードを前提とした入団」の解説
荒川は、即刻大洋への入団拒否を表明し交渉も拒否した。これがきっかけで荒川は大洋ファンと思しき人物から嫌がらせを受け、ついには後述の傷害事件に至る。しかしそれでも荒川は意思を曲げず、1970年2月にアメリカへ野球留学して次のドラフトを待った。この間に大洋は現地法人を通して荒川との接触を続け、巨人以外の球団も荒川を指名するとの情報が流れていた。その後大洋は巨人・ヤクルトと極秘に交渉し、いったん大洋に入団させた後に意中のチームに移籍させる「三角トレード」を提案した。巨人とは条件面で折り合わず断念したものの、ヤクルトは荒川を懐柔するために早稲田OBの三原脩を監督に迎える準備を進め、三原は就任の条件として荒川の獲得を挙げていた。 ドラフト指名選手の交渉期限が切れる2日前の同年10月7日、荒川は大洋と正式契約したが、入団発表の席に荒川の姿はなく、森球団代表とスカウト部長のみが出席するという異様な光景となった。同日ヤクルトからトレードが申し込まれ、12月26日にヤクルトへの移籍が発表された。当初は若手投手との交換トレードが計画されていたが、選手の心情を考慮して金銭トレードとなった。 大洋の森茂雄代表は当初、荒川が「大洋のユニホームを着ることはない」と話していたが、鈴木龍二セントラル・リーグ会長は露骨な三角トレードに抗議し「練習に参加させるように」と大洋に要請した。そのため荒川は大洋入団直後に練習に参加し、一応大洋のユニフォームにも袖を通しており写真も残っている。背番号は大洋・ヤクルト通じて3番だった。 なお1969年のドラフト会議では、荒川が大洋に入団したことにより、ドラフト史上において大洋はその年に指名した選手が全員入団した初めての球団となった。 荒川は念願を叶えたものの「ドラフト破り」として世間からは非難され、セントラル・リーグ事務局からは1か月間の公式戦出場停止という罰則を課された。
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