デモの背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/19 14:44 UTC 版)
釜山と馬山でデモが発生した背景には、経済的、政治的な原因がある。 経済面では、韓国では1978年から付加価値税が導入され、一般市民の日常における納税負担が高まった。また、当時の釜山一帯は靴、食品、繊維産業といった軽工業が発達した地域だったが、第二次オイルショックの発生で原油価格が高騰したため、輸入原料の加工貿易に依存していた地域経済は大打撃を受けた。この二重苦によって釜山一帯は韓国内でも特に景気が悪化した地域となっており、1979年の不渡り発生率はソウル特別市の3倍に達していた。そのため、当時の釜山一帯は広範囲な社会階層から政府に対する不満が集まりやすい環境にあった。 経済と共に、政治面でも状況が悪化した。1979年の韓国の政局は、8月のYH事件、及び9月の金泳三総裁職資格停止事件をきっかけに緊迫の度合いが強まっていた。こうした最中の9月10日、釜山を地盤とする金泳三新民党総裁は朴政権を不法・無法政権であると糾弾し、政権打倒のための国民的闘争を行うことを宣言した。また9月16日のニューヨーク・タイムズとの会見で朴政権の退陣のためにアメリカ政府の圧力を期待すると言明した。これに反発した政府与党は、10月4日に国会で金総裁の除名動議案を与党(民主共和党と維新政友会)単独で強行可決した。金総裁の議員職が失われたことに対し新民党は態度を硬化させ、党所属議員66名全員の登院拒否と議員辞職することを決定して国会に辞表を提出(13日)した。また、第二野党である民主統一党もこれに同調して議員3名全員の辞表を共に提出した。(この一連の出来事を金泳三総裁議員職除名波動と言う。)こうして政局は緊迫の度合いをより一層強めることとなった。 釜馬抗争はこうした背景の下で発生した。
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