デキウスによる迫害と棄教者の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:29 UTC 版)
「古代末期のキリスト教」の記事における「デキウスによる迫害と棄教者の問題」の解説
3世紀中葉頃にはキリスト教は勢力を拡大させ、ローマの教会は40程あり、聖職者154人を擁して、数千人の貧民を保護するなど発展していた。ガリア、スペイン、クレタ島、カッパドキア、アラビア、アルメニア、エデッサにも教会が存在していた。 皇帝デキウス(在位:249年 - 251年)は全帝国規模のキリスト教迫害を行い、250年にローマの神々への祭儀を勅令で命じた。背景にはゲルマンのゴート人などの侵略があった。カルタゴ、アレクサンドリア、ローマの一部のキリスト教徒はこの勅令を偶像礼拝として拒否したため、殉教した。しかし、翌年の251年にゴート軍とのアブリットゥスの戦いで皇帝デキウスは戦死し、祭儀命令は短命に終わった。キリスト教世界においては、殉教者は崇拝の対象とされ、拷問を受けながら釈放したものが称賛される一方で、勅令に服したため非難される者もいた。一度棄教して改心した信者(棄教者)の処遇をめぐって教会では意見の対立が生じて、ローマ司教コルネリウスやステファヌスは棄教者に寛容だったが、ノヴァティアヌス教父は神の真理をないがしろにすることとしてこれに反対し、棄教者は排除すべきであると主張し、対立教皇となり、対立教会を組織した。 その後、ステファヌス司教(在位254年-257年)は、一度棄教して改心した信者の再洗礼は使徒的伝統と一致しないとしたが、カルタゴ司教キプリアヌスはこれに反対し、ローマ教会とアフリカ教会は分裂し、キプリアヌスは各地の司教は指導地域において独立しており、ローマ司教の首位権について問題提出したが、キプリアヌスはペトロ以来のローマ教会の優位を否定したわけではなかった。
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