ダントルカストーらによる捜索とは? わかりやすく解説

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ダントルカストーらによる捜索

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 06:13 UTC 版)

ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー」の記事における「ダントルカストーらによる捜索」の解説

1791年9月25日海軍少将ジョゼフ・アントワーヌ・ブルーニ・ダントルカストーは、ラ・ペルーズ探検隊捜索のためブレスト出発した彼の航海は、ラ・ペルーズがかつて提案していたオーストラリア北西島々を巡る科学的地理的発見道のりとなった1793年5月、彼はサンタクルーズ諸島のヴァニコロ島へたどり着いたダントルカストー狼煙とも思える煙を島の何ヵ所かで見たが、島の周囲を囲む危険な暗礁のせいで調査することはできなかった。ダントルカストー2ヶ月後病死し折悪しく勃発したフランス革命戦争余波もあって捜索断念余儀なくされた。 1826年に、アイルランド人艦長ピーター・ディロンが悲劇十分な証拠一部見つけたサンタクルーズ諸島一つティコピア島で、彼はラ・ペルーズ探検隊の物と思われる数本の剣を入手したのである。彼は売人尋ね、それらがヴァニコロ島近く壊れた2隻の大きな船から持ち出された物と知ったディロンベンガルで何とか船を手に入れ、ヴァニコロ島へ出航した。彼は珊瑚礁狭間海中にある船の残骸大砲の弾、錨など多く証拠見つけた1828年フランス人探検家ジュール・デュモン・デュルヴィルがしたように、彼はこれら遺品ヨーロッパへ持ち帰った探検隊唯一残った一人、ド・レセップスは当時存命であり、彼はディロン持ち帰った品々をアストロラブ号の備品確認した。ヴァニコロ島の住民から聞いたディロン情報から大災害壊滅したラ・ペルーズ探検隊状況がわかり、1964年のブッソール号の難破調査発見により事実確認された。その後2005年2008年にも調査が行われている。これらの調査結果から判明した事実以下の通りである。 アストロラブ号もブッソール号も暗礁難破した。ブッソール号が最初だった。アストロラブ号は積み荷降ろして、ばらばらになった。ブッソール号の生き残りたちは、島の先住民らに虐殺された。先住民によると、船員生き残りたちがアストロラブ号の残骸から2本マストの船を造り、9ヶ月後に西へ向けて出発したその後彼らに何が起こった誰も知らないという。そしてまた主人思われる男と彼の従者2人が島に残りディロンやってくる数年前に島を去ったとのことであった。 現在、ヴァニコロ島のラ・ペルーズ探検隊難破地点付近に記念碑建てられている。

※この「ダントルカストーらによる捜索」の解説は、「ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー」の解説の一部です。
「ダントルカストーらによる捜索」を含む「ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー」の記事については、「ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー」の概要を参照ください。

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