ダントルカストーらによる捜索
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「ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー」の記事における「ダントルカストーらによる捜索」の解説
1791年9月25日、海軍少将ジョゼフ・アントワーヌ・ブルーニ・ダントルカストーは、ラ・ペルーズ探検隊捜索のためブレストを出発した。彼の航海は、ラ・ペルーズがかつて提案していたオーストラリア北西の島々を巡る科学的・地理的発見の道のりとなった。 1793年5月、彼はサンタクルーズ諸島のヴァニコロ島へたどり着いた。ダントルカストーは狼煙とも思える煙を島の何ヵ所かで見たが、島の周囲を囲む危険な暗礁のせいで調査することはできなかった。ダントルカストーは2ヶ月後に病死し、折悪しく勃発したフランス革命戦争の余波もあって捜索は断念を余儀なくされた。 1826年に、アイルランド人艦長ピーター・ディロンが悲劇の十分な証拠の一部を見つけた。サンタクルーズ諸島の一つティコピア島で、彼はラ・ペルーズ探検隊の物と思われる数本の剣を入手したのである。彼は売人に尋ね、それらがヴァニコロ島近くの壊れた2隻の大きな船から持ち出された物と知った。ディロンはベンガルで何とか船を手に入れ、ヴァニコロ島へ出航した。彼は珊瑚礁の狭間の海中にある船の残骸、大砲の弾、錨など多くの証拠を見つけた。1828年にフランス人探検家ジュール・デュモン・デュルヴィルがしたように、彼はこれら遺品をヨーロッパへ持ち帰った。探検隊の唯一残った一人、ド・レセップスは当時存命であり、彼はディロンが持ち帰った品々をアストロラブ号の備品と確認した。ヴァニコロ島の住民から聞いたディロンの情報から大災害で壊滅したラ・ペルーズ探検隊の状況がわかり、1964年のブッソール号の難破調査と発見により事実と確認された。その後、2005年と2008年にも調査が行われている。これらの調査結果から判明した事実は以下の通りである。 アストロラブ号もブッソール号も暗礁で難破した。ブッソール号が最初だった。アストロラブ号は積み荷を降ろして、ばらばらになった。ブッソール号の生き残りたちは、島の先住民らに虐殺された。先住民によると、船員の生き残りたちがアストロラブ号の残骸から2本マストの船を造り、9ヶ月後に西へ向けて出発したがその後彼らに何が起こったか誰も知らないという。そしてまた、主人と思われる男と彼の従者の2人が島に残り、ディロンがやってくる数年前に島を去ったとのことであった。 現在、ヴァニコロ島のラ・ペルーズ探検隊難破地点付近には記念碑が建てられている。
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