タービンの生産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/18 03:10 UTC 版)
1867年、ヨハンは30人の従業員になっていた会社を息子のフリードリッヒへ引き継いだ。同年、フリードリッヒはJ. M. フォイト機械工場(Maschinenfabrik J. M. Voith)という名で地域の商業登記簿に公式に会社を登録した。1869年にフォイトは初めての特許として、木材の粉砕機の特許を取得した。この木材粉砕機により、木材のセルロース繊維を経済的に利用して、紙の品質を向上し、近代的な新聞発行を可能にし、製紙工場を発展させる重要な一歩となった。1881年にゲムリッヒハイムのRaithelhuber, Bezner & Cieへ最初の一貫製紙機械を納めた。フォイトの発明は新しい市場を切り開き、急造した発注により会社は急速に成長した。1890年代半ばまでに、フォイトの機械は製紙業務の全ての工程をカバーしていた。 同じ時期、フォイトではタービンの開発を始めていた。1879年にアドルフ・プファール(Adolf Pfarr)の設計に基づくタービン用調速機を製造し、これにより水力による発電に向けて決定的な一歩となった。1890年にはフォイトは高圧オープンジェット式タービンを納入した。同年、フリードリッヒは彼のビジネスの成功から、ヴュルテンベルク王のカール1世に経済委員会に入って顧問をするように指名された。1892年の会社設立25周年の時点で、330人の従業員を抱えていて、当時のヴュルテンベルク王国で最大規模の会社であった。 1903年にオーストリアのザンクト・ペルテンに最初の子会社を設立し、また同年フォイト史上最大の発注を受け、12,000馬力の出力を持つ、ナイアガラの滝水力発電所向けの当時世界最大の発電用水車を製造することになった。
※この「タービンの生産」の解説は、「フォイト」の解説の一部です。
「タービンの生産」を含む「フォイト」の記事については、「フォイト」の概要を参照ください。
- タービンの生産のページへのリンク