セルゲイ・カピーツァ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/20 22:11 UTC 版)

セルゲイ・ペトロヴィチ・カピーツァ(ロシア語: Сергей Петрович Капица、[sʲɪrˈɡʲej pʲɪˈtrovʲɪt͡ɕ kɐˈpʲit͡sə] スィルギェーィ・ピトローヴィチ・カピーツァ、ラテン翻字:Sergei [Sergey, Sergej] Petrovich Kapitza [Kapitsa]、1928年2月14日 - 2012年8月14日)は、ソヴィエト連邦(ソ連)・ロシアの物理学者・科学ジャーナリスト。父親は著名なノーベル賞物理学者ピョートル・カピーツァ。カナ書きでの姓はカピッツァとも。
モスクワ物理工科大学で高エネルギー物理学を研究するとともに、科学番組『オチェヴィードノエ=ネヴェロヤートノエ』のホストとしてソ連で国民的知名度を誇った。また科学・技術やそれを通じての社会問題について積極的に発言し、特に人口動態に関する研究から21世紀はじめに訪れる人口転換のありようをモデル化し警鐘を鳴らした。
略歴
父ピョートル (Пётр) と母アンナ (Анна) との間に、父母が滞在中のイギリス・ケンブリッジで生まれた[1][2][3]。母方の祖父に応用数学者・海軍造船技師アレクセイ・クリロフ、母方の叔父にフランスの物理化学者ヴィクトル・アンリがいる。1934年、スターリンの指示により父ピョートルは一時帰国したソ連から再出国できなくなったため[4][5]、翌年、セルゲイも家族とともにモスクワに移住した[1][6]。
第二次世界大戦中は、家族とともにカザンへと疎開し、その地で高等学校卒業資格を得た[1][7]。モスクワがナチス侵攻を撃退した後の1943年にモスクワに戻り、15歳でモスクワ航空大学に入学した[4][8]。大学では、射出座席の設計を行い[9]、超音速での空気力学を学んだ[4]。また、夏季にはタタール共和国とバシキール共和国で石油探査遠征に参加した[10]。大学卒業後の1949年にタチヤーナ・ダミール (Татьяна Дамир) と結婚し[11]、中央航空流体力学研究所 (ЦАГИ, TsAGI) で技師としてドイツのV2ロケットを元としたロケット開発に携わった[4][12]。しかし、父ピョートルが、スターリン体制下で核開発計画を担っていたベリヤとの対立により自宅軟禁状態となった末に失職し[4][13]、その影響でセルゲイも1951年に職を失った[2][12]。
その後、ダーチャ(別荘)の手製の研究室で父親の助手を務める傍ら[14]、カピーツァは父の助言に従い地磁気の研究へと転じ地球物理学研究所研究員となった[15][12]。1953年のスターリンの死とベリヤの逮捕後、父親が物理問題研究所に復帰すると同研究所の研究員となり[12]、その後、レベデフ物理学研究所上級研究員を経て、1965年よりモスクワ物理工科大学の教授となった[16]。スターリンの死後、カピーツァは再度研究対象を転じており、ここで電子の小型加速器である高効率なマイクロトロン型加速器を開発した[17]。このマイクロトロンは、原子核物理学の研究だけでなく、非破壊検査や放射化分析、がん治療に応用された[2]。
1973年に『科学の生涯』(Жизнь науки) と題する科学の広範な歴史的論文を扱った著作の編著者となり[2]、これがきっかけで長く続いたテレビ科学番組『オチェヴィードノエ=ネヴェロヤートノエ』の司会を務めた[18][19](次節参照)。また、1983年からはアメリカの一般向け科学雑誌『サイエンティフィック・アメリカン』のロシア語版『ヴ・ミーレ・ナウキ』(В мире науки、「科学の世界で」の意)の編集長を務めた[20][21]。一方、モスクワ物理工科大学での教授職や学科長職は継続したが、ジャーナリストとしての活動はカピーツァを学術研究から実質的に遠ざけることとなった[22]。
カピーツァは、冷戦期もアメリカを含む西側と積極的な交流を行い、科学の目を通した大局的視点で文明や社会問題を問い発言した。科学者の立場で核軍縮を話し合うパグウォッシュ会議に、父親を引き継いで1977年より参加し[23][24]、また、未来予測を通じ地球規模での環境・社会問題に警鐘を鳴らした先駆け的シンクタンクであるローマ・クラブにも名を連ねた[25]。1980年代にはアメリカの天文学者カール・セーガンらとともに、核戦争がもたらす深刻な気候変動である「核の冬」の可能性について国際連合やアメリカ連邦議会上院で証言を行った[26][27]。また、セーガンらが設立したNPO惑星協会で諮問委員を務めた[26]。ゴルバチョフ政権時代に学生への徴兵が停止された影には、カピーツァらの働きかけがあった[22]。
1986年には、ソ連で表向き読書愛好者協会として登録されていた極右団体「パーミャチ」メンバーにより、手斧で殴られる襲撃を受け、応戦して一命は取り留めたものの硬膜下出血を含む重症を負った[28][29][30]。パーミャチは、ロシアでかつて黒百人組と呼ばれていた組織と同様に、反ユダヤ主義的陰謀論に染まり君主制復活を掲げており、「レニングラートの狂人」と呼ばれたイコン修復家の犯人は、カピーツァがフリーメーソンの幹部なのだとし、ユダヤ人を番組に出演させる罪を犯したと主張した[31][29]。政治的動機の犯罪に対してソ連社会でよく見られたように、この氏名不詳の犯人は精神障害とされて特殊病棟に収容された[31][29]。
カピーツァは1980年代以降、歴史動態学(クリオダイナミクス)、特に人口動態の理論に関心を寄せた[32][33]。過去の世界人口の人口増加率が近似的に人口の2乗に比例している、言い換えれば、人口の推移は双曲線でよく近似されるという現象論的知見を元に、力学系理論、シナジェティクスなどを解析に利用し人口転換について議論した[34][2][35]。双曲線的モデル予測が妥当なら、人口は指数関数より速く拡大し、21世紀早期に発散する、あるいは、特異点となり、これは、それまでに世界の発展における本質的な転換、すなわちカピーツァのいう相転移が不可避的に訪れることを示している。カピーツァは、この転換後に文明の真の永続的安定化がもたらされるとした[36]。
長らく勤めたモスクワ物理工科大学を去って数年後の1998️年より、その7️年前に設立された理系主体の私立大学ロシア新大学を主導した[37]。
2012年、84歳でモスクワで肝臓がんのため亡くなった[38][2][26]。生前は、ノーベル賞物理学者ジョレス・アルフョーロフ、航空機設計者アンドレイ・ツポレフ、実験物理学者アレクサンドル・チュダコフなどと個人的親交を深めた。親族には多くの学者がおり、弟アンドレイ (Андрей) は南極大陸の氷底湖ヴォストーク湖を発見した地理学者である[39]。息子フョードル(Фёдор、1950年生)は言語学者、娘マリヤ(Мария、1954年生)は心理学者、娘ヴァルヴァーラ(Варвара、1960年生)は医師となった。
科学番組司会者として
土曜夜に放送されていた科学番組『オチェヴィードノエ=ネヴェロヤートノエ』(ロシア語: Очевидное - невероятное、「明らかなこと、信じがたいこと」の意)の司会者としてカピーツァはソ連国内で人々に広く知られるようになった[18][40]。番組は各分野の科学者や専門家へのインタビューを軸とし、科学知識や研究を啓蒙するというより、社会の中での科学として文化的側面により焦点を当てたものだった。また、番組はいち早く、地球環境問題に注目する一方、疑似科学ブームを批判した。巧みな語り口も相まって、1970-1980年代にかけて番組は好評を博した。
国内外で知名度があり、種々の賞も受賞していたカピーツァは、体制が認めたエリート層の一角であり、その枠内で科学の視点から比較的自由に発言できた[18]。そのテレビ番組も厳格な検閲なく放送されており[22][27]、それによりソ連経済についても幾度かの先駆的な批判をなす舞台となった[41]。1984年には、ノヴォシビルスクの経済学者アベル・アガンベギャンとのインタビューで、ソ連の経済が危機に瀕しているとの内容を放送し、その内容は国際的なニュースともなった[42]。アガンベギャンは、ソ連の経済計画委員会ゴスプランから批判されたが、カピーツァ自身に公的な咎めはなかった[43]。1986年にゴルバチョフ政権が発足すると、ペレストロイカ(改革)政策の初期段階はこうしたアガンベギャンの提案によって形づくられた[43]。
『オチェヴィードノエ=ネヴェロヤートノエ』は、ソ連崩壊後も放送局を変えながら2012年まで続いた。1995年に番組が元の放送局オスタンキノ第1チャンネルを去った理由を、カピーツァは新たな経営者がソ連時代の科学を否定することと、あらゆる疑似科学に異議を唱えないことを求めたためだとしている。
個人的活動
カピーツァは自然と触れ合うスポーツを好むアスリートでもあり、特にスクーバ・ダイヴィングに関しては、ソ連における先駆者のひとりでもあった[30]。1950年代には、クストーの映画に感化されて、アクアラングを自作し友人らとともにサハリンに近いモネロン島(海馬島)などで水中カラー映画『モネロンの岩場で』(У скал Монерона) を撮影した[44][26][45][30]。
航空大学出身のカピーツァは小型航空機の操縦ができた。イギリスに出張中、マンチェスターからケンブリッジへの移動時に知り合った研究者のプライベート機の操縦を代わってもらった。順調に飛行していたとき、眼下で大きなヘリコプターと交差するのが見えた。あいにく無線機の調子が悪く、そのまま目的地まで飛行した。着陸後、ヘリコプターにはチャールズ皇太子(現チャールズ3世)が搭乗しており、外国人が操縦し無線に応答しない小型機に対して緊急事態が宣言されていたことを知った[46][30]。
そのほか、父親と同様、優れたチェス・プレーヤーでもあった[26]。
顕彰
ソ連科学アカデミーの正会員。科学番組を通じて、カピーツァは、1979年にユネスコのカリンガ賞を、また、1980年にソ連国家賞を受賞した[47]。2002年には教育分野での貢献に関しロシア政府から表彰され、2012年にはロシア科学アカデミーの科学普及金メダル最初の被授与者となった[48]。1982年に発見された小惑星5094セリョージャ (Seryozha) の名は彼の愛称にちなむ。
脚注
出典
- ^ a b c Kapitsa (1998), p. 1.
- ^ a b c d e f Andreev, A.F.; Belotserkovskii, O.M.; Bogomolov, G.D.; et al. (Translated by V.I. Kisin) (2012). “In memory of Sergei Petrovich Kapitza”. Physics-Uspekhi 55 (11): 1161–1162. doi:10.3367/UFNe.0182.201211m.l245 .
- ^ «Инфосфера» (2014), pp. 5️, 11, 50–51.
- ^ a b c d e Kapitsa (1998), p. 2.
- ^ «Инфосфера» (2014), pp. 7, 16.
- ^ «Инфосфера» (2014), pp. 10–11, 17, 19–20.
- ^ «Инфосфера» (2014), pp. 18–19.
- ^ «Инфосфера» (2014), pp. 20, 51–52.
- ^ «Инфосфера» (2014), p. 52.
- ^ Kapitsa (1998), pp. 1–2.
- ^ «Инфосфера» (2014), pp. 21–22.
- ^ a b c d «Инфосфера» (2014), p. 24.
- ^ «Инфосфера» (2014), pp. 7, 19, 53–54.
- ^ «Инфосфера» (2014), pp. 53–54.
- ^ Kapitsa (1998), p. 3.
- ^ «Инфосфера» (2014), p. 25.
- ^ «Инфосфера» (2014), p. 28️.
- ^ a b c Kapitsa (1998), p. 6.
- ^ «Инфосфера» (2014), pp. 26–39.
- ^ Greenemeier, Larry (Oct. 1, 2012). “Sergei Petrovich Kapitza”. Scientific American 307 (4): 19. doi:10.1038/scientificamerican1012-19.
- ^ «Инфосфера» (2014), pp. 26, 42–43.
- ^ a b c “Educator From an Academic Dynasty. February 14 is Sergey Kapitsa's Birthday”. Научная Россия (2022年2月14日). 2025年9月10日閲覧。
- ^ Kapitsa (1998), p. 5.
- ^ «Инфосфера» (2014), pp. 26, 28–31.
- ^ «Инфосфера» (2014), pp. 26, 31–33.
- ^ a b c d e “Obituary of Sergei Kapitsa (1928-2012)”. Physics Today. (Aug. 16, 2012). doi:10.1063/PT.4.1508.
- ^ a b «Инфосфера» (2014), p. 39.
- ^ «Инфосфера» (2014), pp. 26, 56–57.
- ^ a b c Рыжачков, Анатолий Александрович (2020年2月13日). “Биография Сергея Капицы: покушение”. Livrezon. 2025年9月11日閲覧。(アナトリイ・ルィジャチコフ「セルゲイ・カピーツァの伝記:暗殺未遂事件」)
- ^ a b c d Сазонов, Евгений (2023年2月14日). “Очевидный и невероятный: Исполнилось 95 лет со дня рождения замечательного ученого, телеведущего и спортсмена-экстремала Сергея Капицы”. Комсомольская правда. 2025年9月11日閲覧。
- ^ a b «Инфосфера» (2014), pp. 57–58.
- ^ Kapitza (2006).
- ^ «Инфосфера» (2014), pp. 28️, 32–33.
- ^ Kapitza, Sergei P.. “The phenomenological theory of world population growth”. Physics-Uspekhi 39 (1): 57. doi:10.1070/PU1996v039n01ABEH000127.
- ^ «Инфосфера» (2014), pp. 37–38.
- ^ Ojovan, Michael I.; Loshchinin, Mikhail B. (2015). “Heuristic Paradoxes of S.P. Kapitza Theoretical Demography”. European Researcher 92 (3): 237–248.
- ^ «Инфосфера» (2014), p. 26.
- ^ «Инфосфера» (2014), p. 27.
- ^ «Инфосфера» (2014), pp. 14–15.
- ^ «Инфосфера» (2014), pp. 39–41.
- ^ Kapitsa (1998), pp. 6–9.
- ^ Kapitsa (1998), pp. 8–9.
- ^ a b Kapitsa (1998), p. 9.
- ^ Kapitsa (1998), p. 4.
- ^ «Инфосфера» (2014), p. 41.
- ^ «Инфосфера» (2014), p. 20.
- ^ «Инфосфера» (2014), p. 44.
- ^ «Инфосфера» (2014), p. 45.
参考文献
- Kapitsa, Sergei (1998年). “Sergei Kapitsa - TRAC (The Russian-American Center) Interview Transcript”. Russian Archives Online (RAO). Public Broadcasting Service (PBS). 2025年9月10日閲覧。
- Kapitza, Sergey P. (2006). Global Population Blow-up and After: The demographic revolution and information society (pdf) (Report).
{{cite report}}
: CS1メンテナンス: デフォルトと同じref (カテゴリ) (Report to the Club of Rome, Report to the Global Marshall Plan Initiative) - Сергей Петрович Капица: ученый, просветитель, крупный общественный деятель России (pdf) (Report). Учебно-методический сборник (ロシア語). Фонд «Инфосфера». 2014.(インフォスフェラ財団「セルゲイ・ペトロヴィチ・カピーツァ:科学者、教育者、ロシアを代表する社会活動家」教育方法論資料集)
関連項目
- セルゲイ・カピーツァのページへのリンク