スペイン渡航
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 16:51 UTC 版)
「ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)」の記事における「スペイン渡航」の解説
ジェームズ1世は、ヨーロッパ大陸で発生した三十年戦争への参戦に消極的だったが、スペインに占領されたプファルツの原状回復には前向きだった。しかし1621年に召集された議会はその費用を認めなかったので実施は不可能だった。そんな中皇太子チャールズ(後のチャールズ1世)は自分とスペイン王女マリア・アナの婚約話を進めることで、持参金としてプファルツ回復をスペイン王フェリペ3世に認めさせることを考えた。バッキンガム侯も次期国王への影響力を確保しようという意図からチャールズのこの構想を支持した。 1623年2月、チャールズ皇太子とバッキンガム侯は国王に相談することもなく独断でスペイン・マドリードへ渡った。2人は半年間マドリードに滞在してスペインと交渉にあたったが、外交経験が無い2人は相手の交渉引き延ばし工作に乗せられ、フェリペ3世の息子でマリアの兄フェリペ4世はイングランドと結ぶ気はなく、側近のオリバーレス伯公爵ガスパール・デ・グスマンからはチャールズ皇太子のカトリック改宗とイングランドの反カトリック法撤廃を要求されたため、交渉は頓挫した。プファルツ回復を持参金とする確約も得られず、2人は何の成果の無いまま9月に帰国の途に就いた。しかしこのスペイン訪問でバッキンガム公はスペインの狙いがイングランドとの交渉を長引かせてイングランドを三十年戦争の枠外に置いておくことだと見抜いた。そのためこれ以降のバッキンガム公は反スペイン派の筆頭に転じた。 スペイン滞在中の1623年5月にバッキンガム公爵に叙されている。
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