スキー指導者へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/09 01:47 UTC 版)
競技を引退した1962年、コルティナダンペッツォオリンピックのスキー監督・野崎彊の勧めで、朝日新聞社・NHK主催のオーストリア人教師によるスキー講習会に、アシスタントとして参加。教師の一人だったフランツ・デブリルの知遇を得て、オーストリアに渡るチャンスに恵まれる。 オーストリアに渡った杉山は、オーバーエステライヒ州で同国アルペン・ナショナルチームのトレーニングに参加する。さらに、フランツ・ホピヒラー教授と、シュテファン・クルッケンハウザー教授と知り合う機会を得る。クルッケンハウザーは、当時国家検定スキー教師の養成機関・サンクリストフ・ブンデススポーツハイムの校長を務めていた。しばらくここで本場のスキーを学びたいという杉山に対し、クルッケンハウザーは、国家検定スキー教師の資格を取得することを提案する。杉山はこれを受け入れ、数年間の刻苦精励の末、1964年に日本人では戦後初の国家検定スキー教師の資格を得た。 帰国後の1965年、杉山は長野電鉄のバックアップを得て、志賀高原の丸池に「杉山進スキースクール」を立ち上げる。この時杉山が標語として掲げたのは、「まず楽しく、そして美しく、最後に力強く」というものであった。これは、ヨーロッパ滞在中、現地の人たちがスキーを心から楽しみ、しっかりした技術で力強く滑っている姿に接し、強く感動したことに由来するという。 だが、自らの名前を冠した学校を開いたことは、職業的なスキー教師として生きる決意を示すものであると同時に、IOC(国際オリンピック委員会)、JOC(日本オリンピック委員会)などが標榜する「自らの競技で得た名声を、商業的に利用してはならない」というアマチュア規定に明らかに反するものであった。従って、必然的に杉山とアマチュアの団体である全日本スキー連盟(SAJ)との関係も悪化することとなった。
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