シロンスクの遺産の回復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/31 09:47 UTC 版)
「ボレスワフ1世ヴィソキ」の記事における「シロンスクの遺産の回復」の解説
家族に対する皇帝の行動に失望しながらも、ボレスワフは多くの戦争に参加し、皇帝の傍に仕えた。1158年から1162年の間、彼はフリードリヒ1世のイタリア遠征に参加して、ミラノの城壁での決闘により有名なイタリア人騎士を倒し、名声を得た。 ボレスワフの忠実な働きがやっと1163年に報われ、フリードリヒ1世はドイツのニュルンベルクで合意文書に署名して外交ルートを通じ、シロンスクの遺産をヴワディスワフ2世の直系に返還させるよう取り計らった。ボレスワフ4世がこの時亡命した王子の帰還を認めることに同意した理由は、ヴワディスワフ2世の死後、彼の息子と彼の支配に直接影響を及ぼしていたポーランドの支持者は帝国の支持を重要視していたので、フリードリヒ1世をポーランドから遠ざけるためであった。 しかし、ボレスワフ4世は彼の領地の安全を維持して、ヴロツワフ、オポーレ、ラチブシュ、グウォグフ、レグニツァというシロンスクの都市への影響力を保持することを決定した。ほぼ16年の亡命の後、ボレスワフは先妻ズヴェニスラヴァが産んだ長男ヤロスワフと長女オルガ、後妻クリスティナ(ズヴェニスラヴァは1155年頃死んだ)と弟ミェシュコと共にシロンスクへ帰還した。末弟コンラトはドイツに残った。 ボレスワフ1世とミェシュコ1世は当初共同統治をおこない、2年後の1165年に、ボレスワフ4世に支配されていたシロンスクの主要な都市を取り戻し、全シロンスクにおける完全な影響力を獲得した。しかし、主な権力は集中されて、長男であるボレスワフ1世により行使された。シロンスクへの統治から3年、ボレスワフ1世はポーランドに覇権を回復するために、叔父ボレスワフ4世に対する報復的な遠征をするだけ十分に強くなったと感じていた。
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