シロンスク・ピャスト家とポーランド
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「シロンスク・ピャスト家」の記事における「シロンスク・ピャスト家とポーランド」の解説
シロンスク・ピャスト家はポーランド最初の王朝の嫡系という立場にあった。一族がポーランドの分裂後もポーランド国家内の出来事に強い関心を寄せ続けた理由は、そこにあるといえる。イギリスの歴史家ノーマン・デイヴィスによれば、王族であるピャスト家の諸公全員のポーランド国家への忠誠心が、単一の教会組織と同様に、分裂状態にあったポーランド王国の一体性を保障したという。デイヴィスは、ポーランドからの決別は彼ら一族の「意志」だったのではないかとする疑いは、一族がその後もポーランドでの諸事に参加しているという事実によって否定されると考えている。彼は、シロンスクの公爵達が、ポーランド国内に残った親族達との関係を断っていなかったとも述べている。その最も明らかな証拠と言えるのが、13世紀にヘンリク1世、ヘンリク2世、ヘンリク4世と3人のシロンスク諸公が、クラクフ長子領の支配権を得てポーランド君主の称号を手にしているという事実である。 デイヴィスの意見では、シロンスクのドイツ化は必ずしもポーランドからの分離の意志の表れと受け取ることは出来ない。デイヴィスは、ドイツ化はシロンスク・ピャスト家の人々がポーランド国内における野心を満たすために選んだ方便の一つだったことを示唆している。ドイツ人入植者の計画的な誘致はシロンスクの強大化をもたらし、シロンスク・ピャスト家がクラクフ長子領を支配するための権力を築いた。シロンスク・ピャスト家によるクラクフ支配の野心が挫折したとき、彼ら一族は自分達の支配地域に他地域とは異なる道を歩ませようと決めたのである。
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