シロンスク諸公の頂点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/30 09:49 UTC 版)
「ボルコ1世スロヴィ」の記事における「シロンスク諸公の頂点」の解説
1296年に兄ヘンリク5世が3人の幼い息子を遺して死んだ。最も近しい男性親族として、ボルコ1世は兄の遺児たちの後見人となり、レグニツァ=ヴロツワフ公国の摂政の地位についた。彼は摂政としての地位から上がる収益までも、ソブトカにある自分の持ち城に集めさせた。ボルコ1世による摂政政治は、いくつかの難問に直面した。まず最初に起きたのはヴロツワフの貴族層による反抗だった。彼らは有名になっていたボルコ1世の過酷な統治が、自分たちの特権を脅かさないかと恐れていた。ヤヴォル公の苦難を知ったグウォグフ公ヘンリク3世は、これを利用してヤヴォル公に戦争をしかけてきた。しかしこの状況下でもボルコ1世は見事な成功を収めた。彼はグウォグフ公の侵入を蹴散らしたのみならず、ホイヌフとボレスワヴィエツをも奪取したのである。 ボルコ1世は自領の拡大と築城に熱心さを示した。公爵はスラヴ人の血を引くピャスト家の王子だったが、自分の公国にドイツ人が移住してくるのを奨励し(東方植民)、シトー会の改革運動を保護し、クシェシュフにグリュッサウ修道院を建立した。また文学のパトロンでもあり、テューリンゲン方伯ルートヴィヒ3世によって集められた中高ドイツ語の詩篇8000行が、ボルコ1世の命を受けた逸名の修道士によってまとめられている。 高地シロンスクでの緊張状態を解決するため、1297年3月までにズヴァノヴィツァチュでシロンスク諸公の年次会議が開催され、この会議でボルコ1世はヘンリク3世と和解した。ボルコ1世は1299年3月21日に教皇の封臣として認められて以後、その晩年をシロンスクで最も勢威ある諸公となるための努力に費やした。 1301年11月9日に49歳で急死(45歳とも)、グリュッサウ修道院に埋葬された。後を継いだ彼の息子達は幼かったため、妻ベアトリクスの兄弟であるブランデンブルク=ザルツヴェデル辺境伯ヘルマンが甥たちの摂政を務めた。ヘンリク5世の息子達の保護と、レグニツァ=ブジェク公国の摂政の役目はボヘミア王ヴァーツラフ2世に引き継がれた。
※この「シロンスク諸公の頂点」の解説は、「ボルコ1世スロヴィ」の解説の一部です。
「シロンスク諸公の頂点」を含む「ボルコ1世スロヴィ」の記事については、「ボルコ1世スロヴィ」の概要を参照ください。
- シロンスク諸公の頂点のページへのリンク