シャルル2世の治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/09 13:51 UTC 版)
「ベルナール・ド・セプティマニー」の記事における「シャルル2世の治世」の解説
ベルナールはフォントノワの戦い(841年6月25日)には参加しなかった。この戦いで西フランク王シャルル2世と東フランク王ルートヴィヒ2世は兄ロタール1世に勝利し、ロタール軍は南に退却した。ベルナールは情勢を見極めるため傍観の立場をとり、勝敗が決したところで使者として息子ギヨームをシャルル2世のもとに送り、シャルルに臣下の礼を捧げて、父ベルナールの約束としてピピン2世を降伏させることを伝えた。ピピン2世は先に反乱を起こしたピピン1世の子であり、アキテーヌ王位を主張していた。実際にはベルナールにはこの約束を守る気はなかったようである。 シャルル2世は842年のアキテーヌ遠征の間に、ベルナールを処罰することを決め、6月にトゥールーズ伯領を没収しアクフレに与えた。しかしベルナールはこの決定を拒否し、ピピン2世と同盟して843年にはアクフレをトゥールーズから追い出した。これに対しシャルル2世はプロヴァンス公ゲランを送ることを決め、ゲランは842年に軍を率いてアキテーヌに向った。その後、ヴァイキングの侵攻やブルトン人の襲撃など、その他の出来事のために、帝国内の争いを終結させる必要が生じ、843年8月、シャルル、ルートヴィヒおよびロタールの3兄弟の間でヴェルダン条約が締結された。セプティマニアおよびゴティアはシャルル2世の支配下にとどまったが、ベルナールが支配していたユゼス伯領はロタールのものとなった。さらに、長らくベルナールのものとなっており、続いて息子らが所有権を主張していたオータン伯領は、プロヴァンス公ゲランに与えられることとなった。 844年、ピピン2世の降伏とトゥールーズの征服をもくろむシャルル2世が再度アキテーヌにやってきた。844年のトゥールーズの戦いにおいて、トゥールーズ侵攻の際にシャルル軍によって、もしくはユゼスでゲランによって、ベルナールは捕われの身となった。844年5月、ベルナールはシャルルの前に連れてこられ、シャルルの命により処刑された。 6月14日、ピピン2世およびベルナールの息子ギヨームはアングーモワでシャルルに大打撃を与えた。ベルナールの所領は、それまでアラゴンでアスナール・ガリンド1世を降伏させる任務についていたスニフレに与えられた。
※この「シャルル2世の治世」の解説は、「ベルナール・ド・セプティマニー」の解説の一部です。
「シャルル2世の治世」を含む「ベルナール・ド・セプティマニー」の記事については、「ベルナール・ド・セプティマニー」の概要を参照ください。
- シャルル2世の治世のページへのリンク