シャム属領期とは? わかりやすく解説

シャム属領期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 09:08 UTC 版)

ルアンパバーン王国」の記事における「シャム属領期」の解説

1791年にスリニャ・ウォンサーが死亡すると、インタソーム王の第二子であるアヌルッタが王位就いたヴィエンチャン王国との紛争原因でアヌルッタ王は1792年一時シャム捕囚されたが、4年後には復位し1817年死亡するまで王位就いたその後はマンタトウラートが即位1827年、マンタトウラートはヴィエンチャン王国チャオ・アヌウォンから独立決意秘密裏打ち明けられるも、この情報シャム流しヴィエンチャン王国独立阻み、かえって、ヴィエンチャン王国事実上滅亡しラオス領域内での勢力伸ばした1852年、チャンタラートが即位した翌年にシェントンで民衆反乱勃発。これを制圧したことをシャムより高く評価され1779年シャム押収されたプラバーン金仏像がルアンパバーン王国へと返還されている。 ルアンパバーン王国統治おおむね平和に行われていたが、1872年より、突然複数のチン・ホー族(英語版)による来襲始まった(ホー戦争英語版))。チン・ホー族の襲撃2年間に渡り続けられ、シップソーン・チュタイ地方(Sip Son Chu Tai)、ムアン・タン(英語版)(現在のディエンビエンフー)などルアンパバーン王国北東部占拠される至った1874年にはいったん沈静化したが、翌年より再びシェンクァン、ヴィエンチャンなどでチン・ホー族の襲撃が行われている。これらの襲撃シャム軍による掃討作戦により一応のおさまり見せたが、1885年再度ヴィエンチャン襲撃遭い1887年にはルアンパバーン王国太平天国の乱の後ベトナム傭兵としてフランス戦っていた黒旗軍襲撃された。この襲撃により当時国であったウン・カム(英語版)とその家族危機晒されたが、フランス副領事館のオーガスト・パヴィ(英語版)によりパークラーイ(ベトナム語版)まで救出され、さらにバンコク(シャム)への逃亡成功している。 長き渡ったチン・ホー族の反乱黒旗軍襲撃は、ルアンパバーン王国住民初動遅れたシャムへの不信感植え付け逆に国王救出したフランスへ信頼感産み出す契機となった

※この「シャム属領期」の解説は、「ルアンパバーン王国」の解説の一部です。
「シャム属領期」を含む「ルアンパバーン王国」の記事については、「ルアンパバーン王国」の概要を参照ください。

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