シャム属領期
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1791年にスリニャ・ウォンサーが死亡すると、インタソーム王の第二子であるアヌルッタが王位に就いた。ヴィエンチャン王国との紛争が原因でアヌルッタ王は1792年に一時シャムに捕囚されたが、4年後には復位し、1817年に死亡するまで王位に就いた。その後はマンタトウラートが即位、1827年、マンタトウラートはヴィエンチャン王国のチャオ・アヌウォンから独立の決意を秘密裏に打ち明けられるも、この情報をシャムへ流し、ヴィエンチャン王国の独立を阻み、かえって、ヴィエンチャン王国は事実上滅亡し、ラオスの領域内での勢力を伸ばした。1852年、チャンタラートが即位した翌年にシェントンで民衆の反乱が勃発。これを制圧したことをシャムより高く評価され、1779年にシャムに押収されたプラバーン金仏像がルアンパバーン王国へと返還されている。 ルアンパバーン王国の統治はおおむね平和に行われていたが、1872年より、突然複数のチン・ホー族(英語版)による来襲が始まった(ホー戦争(英語版))。チン・ホー族の襲撃は2年間に渡り続けられ、シップソーン・チュタイ地方(Sip Son Chu Tai)、ムアン・タン(英語版)(現在のディエンビエンフー)などルアンパバーン王国の北東部を占拠されるに至った。1874年にはいったん沈静化したが、翌年より再びシェンクァン、ヴィエンチャンなどでチン・ホー族の襲撃が行われている。これらの襲撃はシャム軍による掃討作戦により一応のおさまりを見せたが、1885年に再度ヴィエンチャンが襲撃に遭い、1887年にはルアンパバーン王国が太平天国の乱の後ベトナムの傭兵としてフランスと戦っていた黒旗軍に襲撃された。この襲撃により当時国王であったウン・カム(英語版)とその家族は危機に晒されたが、フランス副領事館のオーガスト・パヴィ(英語版)によりパークラーイ(ベトナム語版)まで救出され、さらにバンコク(シャム)への逃亡に成功している。 長きに渡ったチン・ホー族の反乱と黒旗軍の襲撃は、ルアンパバーン王国の住民に初動が遅れたシャムへの不信感を植え付け、逆に国王を救出したフランスへの信頼感を産み出す契機となった。
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