シバ国の位置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 06:31 UTC 版)
1世紀の人物、フラウィウス・ヨセフス著の『ユダヤ古代誌』によるとシバの女王は「エジプトとエチオピアを支配した女王」で、名前はニカウレー(Nikaule)と記されている。ヨセフスの指す「サバ」は『旧約聖書』「イザヤ書」にあるエジプトやスーダン南方の「セバ(Saba)」と「列王記」の「シバ(Sheba)」との混同あるいは同一視があると指摘されている。 一方で、紀元前4世紀から前1世紀にかけてテオフラストス、アガタルキデス、ストラボンなどの著作に南アラビアの香辛料の産地として「サバ」という国が記されている。また、5世紀のフィロストルギオス著の『教会史』では、女王の国は南アラビアにあったとしている。『教会史』によると4世紀ごろに南アラビアを支配していたヒムヤル王国(現イエメン西岸)は、かつてサバと呼ばれその首都から女王がソロモンに会うために出立したと記されている。しかし、紀元前7世紀ごろにサバ王カリブイル・ワタルがアッシリア王に貢納したことを記した碑文より以前、つまりソロモンの活動した紀元前10世紀ごろにシバ国が存在したことを証明する資料や碑文などは発見されていないため史実性は否定されている。 王国の所在地については上記のようにエチオピア近辺と南アラビアの二説があるが、両地域はまったくの無関係ではない。南アラビアのサバ国と、対岸のエリトリア、エチオピア北部には、両地域の深い関係を示す遺跡や碑文が多数残されている。また、紀元前5世紀ごろの王は「ダァマトとサバのムッカリブ」と称したが、現地民のダァマトと移民のサバを支配するムッカリブ(王たちの支配者)という意味で、この「ムッカリブ」は同時代の南アラビアでも使用されたなど称号に関しても両地域の関係性が見られる。
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