ゴードン・ベネット・カップ (自動車レース)とは? わかりやすく解説

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ゴードン・ベネット・カップ (自動車レース)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/16 00:03 UTC 版)

ゴードン・ベネット・カップ (Gordon Bennett Cup) は、1900年から1905年にかけて6度開催された国別対抗自動車レースである。国際規定(インターナショナル・フォーミュラ)に則って開催された初の国際大会であり、モータースポーツにおいてナショナルカラーが定着するきっかけとなった。

概要

James Gordon Bennett Jr.

自動車レース黎明期の1890年代後半、フランスパリを基点とする都市間レース(パリレース)が人気を博し、新聞社が後援するイベントも行われていた。ゴードン・ベネット・カップはアメリカの新聞「ニューヨーク・ヘラルド」の社主であり、パリ在住の大富豪であったジェイムズ・ゴードン・ベネット・ジュニア (James Gordon Bennett Jr.) の発案により創設された。

ベネットは国ごとの自動車製造技術を比較する機会として、各国自動車クラブが参加する国別対抗戦という方式を思い立った。彼はフランス自動車協会 (ACF) に純銀製の優勝杯を寄贈し、統一ルールを作成するよう働きかけた。

  • 出場車両は一カ国3台まで登録できる。
  • 車両部品はすべて出場国内で製造されたものでなければならない。
  • ドライバーは出場国の自動車クラブに所属していれば、外国人でも構わない。
  • 車両は2座席、重量は400kgから1000kgの範囲とする。
  • 最低2名(ドライバーとメカニック)が並列着座し、体重はそれぞれ最低60kgであること。体重が60kgに満たない場合は不足分の重さを追加する。
  • 走行距離は350kmから最長650kmまでとする。
  • 優勝した自動車クラブ(優勝国)は次回大会を翌年に主催しなければならない。

また、観客が車両の所属先を判別しやすいよう、国別にボディカラーが決められた[1]。これがナショナル・レーシングカラーの起源となった。

ゴードン・ベネット・カップで採用されたナショナルカラー
国名 詳細
フランス 青 - 当時フランス製レーシングカーとして最も強かったパナールの色を採用[2]。後にブリュー・ド・フレンチ(ラテン語でアズール・ド・フレンシア。和製英語でフレンチブルー)がナショナルカラーとして定着した。
ドイツ 白 - 後年、ドイツは銀色(シルバー・アロー)をナショナルカラーとして採用。
アメリカ 赤 - 後年、アメリカは青地に白、あるいは白地に青のストライプ(レーシング・ストライプ)をナショナルカラーとして採用。
ベルギー
イギリス 緑 - 第3回(1902年)より正式採用されたが、実際は1901年のパリ - ベルリンレースに出場したイギリス人ジャロットの車両(フランス製クレマン)が緑に塗られていた[2]。この車両はカーナンバーが不吉な13番になった埋め合わせとして、フランスで幸運の色とされる緑に塗られた[2]ネイピア & サン社が製造する車も特に深みのある緑(オリーヴグリーン。後にブリティッシュ・レーシング・グリーンと呼ばれる)を採用し、第3回大会(1902年)での優勝を契機に緑がナショナルカラーとして定着した。
イタリア 黒 - 後年、イタリアは赤(ロッソ・コルサ)をナショナルカラーとして採用。


1900年に第1回が開催され、1903年の第4回以降ビッグタイトルとして大いに盛り上がったが、運営上のトラブルから1905年の第6回で終了することになった。ベネットは代わりに1906年気球レース、1909年飛行機レースのゴードン・ベネット・カップを創設した。

沿革

第4回大会(1903年)に参加したチーム
第4回大会の優勝者、カミーユ・ジェナッツィとメルセデス
第5回大会(1904年)の優勝者、レオン・テリーとリシャール・ブラジエ

第1回(1900年)

第1回大会は1900年6月14日にフランスのパリ - リヨン間の568kmで行われた。フランス・ドイツ・アメリカ・ベルギー4カ国から7台がエントリーし、フランス製パナール2台が完走した。優勝者のフェルナン・シャロン (Fernand Charron) の平均速度は約62km/hだった。

第2回(1901年)

第2回大会は1901年5月29日にパリ - ボルドー間の527kmで行われた。エントリー台数が少なかったため単独開催とせず、フランス自動車クラブ主催のパリ - ボルドーレースに組み込まれた。イギリスの1台はフランス製ミシュランタイヤを装着したため、「車両部品は自国製」という規定に抵触し賞典外とされた。結局、フランス車3台のみの出走となり、優勝者のレオンス・ジラルド (Léonce Girardot) のみが完走した。

第3回(1902年)

第3回大会もパリ - ウィーンレースに組み込まれ、1902年6月26日から6月28日にかけてパリ - インスブルック間の565kmで行われた。フランス車3台とイギリス車3台がエントリーし、イギリスのセルウィン・エッジ (Selwyn Edge) のみが完走して優勝した。

第3回までは参加台数も少なく注目度は低かったが、フランス以外の国が初めて優勝したことで、ようやく国際的なメジャーイベントとして脚光を浴びることになった。参加国も増え、国によっては代表を決める予選会が行われるようになった。

第4回(1903年)

第4回大会は規定によりイギリスがホスト国となったが、イギリス国内では公道上でのレースが禁止されており[3]、隣国アイルランドで開催されることになった。また、直前のパリ - マドリードレースが観客を巻き込む死傷事故により中止されたことで都市間レースは廃止され、キルデア県の公道を閉鎖した周回コース (527km) が設定された。1903年7月2日のレースにはイギリス・フランス・ドイツ・アメリカの4カ国から12台がエントリーし、ベルギー人カミーユ・ジェナッツィ[4] (Camille Jenatzy) の乗るドイツ車が優勝した。

イギリスではこれを機に、レースを開催できる土地が求められた。そこで、自治権をもつマン島の公道を閉鎖して、1904年1905年にゴードン・ベネット・カップの選抜レースが行われた。これがきっかけとなり英国伝統のタイトル「RAC ツーリスト・トロフィー英語版」が創設され、1907年よりオートバイのマン島TTレースが行われるようになった[5]

また、鉄道王ヴァンダービルト家の一員で、レース愛好家でもあるウィリアム・キッサム・ヴァンダービルト2世 (William Kissam Vanderbilt II) はこの大会で惨敗したアメリカの奮起を促すため、1904年ヴァンダービルト・カップを創設した[6]

第5回(1904年)

第5回大会はドイツがホスト国となり、1904年6月17日ヘッセン州タウヌス山中の周回コース (511km) で開催された。イギリス・フランス・ドイツ・ベルギーに初参加のイタリアオーストリア=ハンガリーを含めて6カ国18台がエントリーし、フランスのレオン・テリー (Léon Théry) が優勝した。無名のテリーは殊勲の勝利により、一躍フランスの国民的英雄となった。

第6回(1905年)

第6回大会の開催権はフランスに戻り、ミシュランの地元クレルモン=フェラン周辺の周回コース (549km) で開催された。イギリス・フランス・ドイツ・アメリカ・イタリア・オーストリア=ハンガリーの6カ国18台がエントリーし、フランスのレオン・テリーが連覇を達成した。

しかし、フランス自動車連盟は各国3台までという出場台数制限に不満を抱き、第7回大会の開催義務を放棄すると宣言。1906年にはル・マン近郊[7]において初のグランプリレースとなるACFグランプリ(1906年フランスグランプリ)を開催する。これを以って、ゴードン・ベネット・カップは自然消滅する形となった。

優勝者

コース 勝者 車両 タイム
1 1900 パリ - リヨン(フランス) フェルナン・シャロン パナール・40HP 9時間9分49秒
2 1901 パリ - ボルドー(フランス) レオンス・ジラルド パナール・40HP 8時間50分59秒
3 1902 パリ(フランス) - インスブルックオーストリア セルウィン・エッジ ネイピア・50HP 11時間2分52秒
4 1903 アシー(アイルランド カミーユ・ジェナッツィ メルセデス・60HP 6時間39分
5 1904 ホンブルグ(ドイツ) レオン・テリー リシャール・ブラジエ 5時間50分1秒
6 1905 シルキュイ・ドーヴェルニュ(フランス) レオン・テリー リシャール・ブラジエ 7時間2分42秒

脚注

  1. ^ Bruno FUNGENZI. “Gordon Bennett Cup 1905” (英語). Champanelle.net. 2011年9月27日閲覧。
  2. ^ a b c 高斎、p41。
  3. ^ 蒸気自動車を規制する赤旗法以来、自動車の公道利用条件は厳しく、当時は20mph (32km/h) 以上の速度を出してはならなかった。
  4. ^ 1899年に電気自動車で速度記録挑戦を行い、史上初の100km/h超えを果たしたレーサー。
  5. ^ 大久保、137 - 139頁。
  6. ^ 高斎、pp74 - 76。
  7. ^ ル・マン24時間レースが行われるサルト・サーキットではなく、三角形をした1周103kmの公道周回コースを12周して行われた。

参考文献

  • 大久保力 『百年のマン島 TTレースと日本人』 三栄書房、2008年、ISBN 4779604079
  • 高斎正 『モータースポーツ ミセラニー 世界自動車レースの軌跡』 朝日ソノラマ、1998年、ISBN 425703548X
  • インゴ・ザイフ著、中村昭彦訳 『メルセデス・ベンツの思想』 講談社、1999年、ISBN 4062097117

関連項目

外部リンク



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