ゴナーブ王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/01 06:34 UTC 版)
「フォースタン・E・ウィルクス」の記事における「ゴナーブ王」の解説
司令官としての功績で島民の信頼と尊敬を勝ち取ったウィルクスは、やがてティ・メメンネ女王が率いるブードゥー教徒(英語版)のグループに加わることを許された。島に暮らし1年半ほどが過ぎた頃、彼は女王の家へと招かれ、ブードゥー教の秘儀に参加した。そしてこの儀式において、ウィルクスの王としての戴冠が宣言されることとなる。 この背景には、彼がティ・メメンネ女王をはじめとする島民に尊敬されていたことに加え、ハイチの前皇帝フォースタン1世(フォースタン=エリ・スールーク(英語版))に関する迷信が関係している。島に伝わるところによると、フォースタン1世は同じ名の子孫がやがて王として島に戻ると言い残し姿を消したとされており、島民からはリテペビニ(Li te pe vini)、すなわち「来たるべき者」と呼ばれていた。 1926年7月18日の夕方、ウィルクスのために特別に作られた「王の呼び声」が太鼓で奏でられる中、儀式は始まった。篝火に照らされる中、寺院から現れたウィルクスの額と手首に、生贄の鶏の血で模様が描かれた。そして、頭上にフォースタン1世の王冠(英語版)が載せられた。この時、ウィルクスは単なる歓迎の儀式か何かに過ぎないと考えおり、自らが王となったことを知るのは儀式後のことだった。 その後、フォースタン2世はティ・メメンネ女王と協働で3年間の統治を行った。フォースタン2世は迅速ながらも寛大な裁きを行なうことで知られた。 フォースタン2世のもと、ゴナーブ島の統治はハイチの他の地域よりもスムーズかつ非暴力的に進められた。1928年、ルイ・ボルノ(英語版)大統領が初めてゴナーブ島を訪問した。ボルノはフォースタン2世が成し遂げた改革の成果に感銘を受けた一方、彼が島民から王と見做されていることに不快感を示した。フォースタン2世による治世は、帰国が決定した1929年に終了した。1931年2月、アメリカ本土に到着した。
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