コンドルとの交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 15:14 UTC 版)
同じ明治14年、お雇い外国人の建築家ジョサイア・コンドルが入門。コンドルは暁斎からイギリスの暁斎を意味する「暁英」の号を与えられるほど親しく、2人の交流は前述の暁斎の絵日記にも見られる。この絵日記では他にも、明治3年(1870年)頃から明治22年(1889年)3月頃の暁斎の私生活の状況が、ある程度把握できる。例えば明治17年(1884年)2月26日に、「客山本、フキノトウ、大島屋、卵。笹之雪参る」とあり、大島というのは、尾形月耕に代わって月耕の弟・名鏡次郎吉の面倒を見ている親戚のことではないかと思われる。笹之雪は、台東区根岸にある暁斎馴染みの豆腐専門料理屋である(正確には「笹乃雪」、今日でも根岸名物で著名)。同年狩野洞春秀信が死去の際、狩野派の画法遵守を依頼されたため、改めて狩野宗家の狩野永悳に入門し、駿河台狩野家を継承した。 岡倉覚三(天心)、フェノロサに東京美術学校(現東京芸術大学の前身)の教授を依頼されたが、果たせずに明治22年(1889年)、胃癌のためコンドルの手を取りながら逝去。暁斎は死の3日前、絵筆を取りたい欲求に抗し難く、枕後ろの障子にやせ衰えた自分の姿と、もうすぐ自分が入るであろう角型の桶を描いたという。墓所は谷中にある瑞輪寺塔中正行院、戒名は本有院如空日諦居士。墓石(台東区文化財)は遺言により、暁斎が好んで描いた蛙に似た自然石が用いられている。
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