コンクール審査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 01:08 UTC 版)
「カヴァレリア・ルスティカーナ」の記事における「コンクール審査」の解説
ソンゾーニョ社は当初、第2回コンクールのローマでの一次選考(作曲者自身が審査員の面前で自作発表を行う)を1889年秋に行い、そこで舞台にのせる3作品を決定、12月には本選(舞台上演を行い、そこでの観客の反応も参考にして、審査員が優勝作品を選定)を行う予定だった。しかし予選参加作品は73作の多きにも及び(第1回は28作)、審査委員会は一次予選を1890年2月に延期するとの発表を行った。 マスカーニは彼の一次選考指定日、1890年2月25日に審査員の待つローマ・聖チェチーリア音楽院に赴いた。応募者には歌手や器楽奏者を同伴してのプレゼンテーションも認められていたが、資金に乏しいマスカーニは自分でピアノを弾き、主パートを自ら歌うだけだった。しかし発表が進むにつれ5人の審査員の関心は深まり、やがてその中の一人、作曲家フィリッポ・マルケッティが主パートと合唱部分を歌ってくれるまでになった。発表終了後の審査員の反応は非常に好意的であり、彼らが「一次審査の結果発表までローマを離れないでほしい」と念押しをしたことで、マスカーニは自作の成功を確信したという。 一日2作品の発表をこなす強行日程の一次選考の結果は3月5日に発表となり、マスカーニの予想通り『カヴァレリア・ルスティカーナ』は3作品の一つに選ばれた(他2作はニコラ・スピネッリの『ラビリア』とヴィンチェンツォ・フェローニ(イタリア語版)の『ルデッロ』、いずれも今日演奏されることはない)。 マスカーニはその後、細部の修正を行い、かつて学んだミラノにも赴き、恩師や友人(プッチーニなど)の意見も聞いている。またチェリニョーラへの帰路にはリヴォルノにも立ち寄り、台本作家2人とも会っている。メナッシとマスカーニとはこの時が初対面だった。
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