コソヴォの戦いと死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:19 UTC 版)
「ラザル・フレベリャノヴィチ (セルビアの侯)」の記事における「コソヴォの戦いと死」の解説
1386年のプロチニクでの衝突以来、ラザルとオスマン帝国の間での決戦が起こることは避けられないものとなっていた。ハンガリー王ジグモンドと和平を結び北方の憂いを断ったラザルは、ヴク・ブランコヴィチとボスニア王スティエパン・トヴルトコ1世からの軍事支援を取り付けた。1388年にボスニアの大貴族ヴラトコ・ヴコヴィチ(英語版)がビレチャ川の戦いでオスマン帝国の大軍を破ったので、セルビアとボスニアの両君主はオスマン帝国がさらなる大軍で攻めてくるだろうと予想していた。ムラト1世率いる27,000人から30,000人と推定される大軍がコンスタンティン・ドラガシュの領地を通過し、1389年6月にプリシュティナ近くのコソヴォ・ポリェ(コソヴォ平原)に着陣した。これと向かい合ったラザルの軍勢は12,000人から30,000人と推定されている。その中にはラザル自身の手勢の他、ヴク・ブランコヴィチの軍勢や、ボスニアから派遣されてきたヴラトコ・ヴコヴィチ率いる軍勢も含まれていた。1389年6月15日、中世セルビア史でもっとも名高いコソヴォの戦いが起きた。この戦いでは両陣営ともに甚大な損害を出し、双方の司令官たるラザルとムラト1世も命を落とした。 広く人口に膾炙しているセルビアの叙事詩によれば、前夜のうちに死を覚悟していたラザルは、ヴク・ブランコヴィチの裏切りにもあって敗北を喫し、オスマン軍に捕らえられて処刑されたのだとされている。一方のムラト1世は、降伏を装って近づいてきたラザル配下の騎士ミロシュ・オビリッチに暗殺されたのだという。しかし実のところ、ラザルとムラト1世の死に様をはじめ、コソヴォの戦いの実情はほとんど分かっていない。近い時代のオスマン帝国やビザンツ帝国、イタリアなどの史料は長きにわたり研究されているものの、口述の情報を基にしていたためかそれぞれの記述があまりにも曖昧であったり食い違ったりしており、研究者もコソヴォの戦いの実像をまとめるに至っていない。これについて20世紀末のセルビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチは「今日において、コソヴォの戦い(に関する歴史のうち)の何が歴史的真実であり何が伝説であるか判断するのは不可能である。そしてそれはもはや重要な問題ですらない。」と発言している。
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