コスタリカ地峡探検とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > コスタリカ地峡探検の意味・解説 

コスタリカ地峡探検

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 04:49 UTC 版)

リチャード・トレビシック」の記事における「コスタリカ地峡探検」の解説

セロ・デ・パスコ離れた後、エクアドル通過してコロンビアボゴタ向かった1822年にはコスタリカにたどり着き鉱業機械開発をしようとした鉱石機器輸送するための実用的ルートを捜すのに時間費やし、川と鉄道を使うルート考えたトレビシック息子書いた伝記によれば馬車ラバ車)鉄道ではなく蒸気機関車鉄道考えていたという。 このときトレビシック仲間スコットランド人山師ジェームズ・ジェラードと2人若者ホセ=マリア・モンテアレグレ(英語版)(後のコスタリカ大統領)とその兄弟マリアーノで、ジェラードは彼らをロンドン学校入学させるつもりだった。他に7人の現地人集まったが、そのうち3人は彼らを案内しただけで去っていった。その旅は非常に危険に満ちていた。一行のうち1人急流飲まれ行方不明となっており、トレビシック自身2度ほど死を覚悟したという。一度溺れかけたところをジェラード助けられ二度目現地人喧嘩してワニけしかけられ食われそうになったカルタヘナにたどり着くと、そこで故郷帰ろうとしていたロバート・スチーブンソンジョージ・スチーブンソン息子)と再会した2人以前会ったのはかなり前のことで、スチーブンソンがまだ少年だったころのことである。スチーブンソントレビシック故郷帰るための資金として50ポンド渡した1827年10月ファルマス到着したときには衣服以外にはほとんど何も持っていなかった。その後コスタリカに戻ることは無かった

※この「コスタリカ地峡探検」の解説は、「リチャード・トレビシック」の解説の一部です。
「コスタリカ地峡探検」を含む「リチャード・トレビシック」の記事については、「リチャード・トレビシック」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「コスタリカ地峡探検」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「コスタリカ地峡探検」の関連用語

コスタリカ地峡探検のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



コスタリカ地峡探検のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのリチャード・トレビシック (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS