ゲール化とイングランドの後退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 14:44 UTC 版)
「アイルランドの歴史」の記事における「ゲール化とイングランドの後退」の解説
1315年にスコットランドのエドワード・ブルース(スコットランド王ロバート1世の弟)がゲール人の反イングランド貴族を味方につけてアイルランド王に推戴され、アイルランドに侵攻した。エドワードが敗退するまでにダブリンを中心として多くの都市が破壊された。しかしこの戦乱を利用して、アイルランド人貴族たちはイングランドの占領によって奪われた土地の多くを取り戻した。 1348年にはペスト(黒死病)がアイルランドへと伝染した。主に田舎に住んでいたアイルランド人に対して、イングランド人やノルマン人の多くは都市部に居住していたため、ペストにより大きな犠牲を出した。キルケニーの修道院に伝わる記録では、黒死病は“人類の絶滅と世界の終わりの始まり”であると書かれている。ペストが去った後にアイルランド語とアイルランド土着の文化が一時的に勢力を取り戻した。この時期の英語圏はダブリン周辺のペイル地域のみに縮小している。 ペイル以外のアイルランドでヒベルノ・ノルマン人貴族はアイルランド語とその風俗を取り入れていた。かれらはOld Englishと呼ばれ、「本来のアイルランド人よりもさらにアイルランド的である」と言われた。以後の数世紀にわたり、彼らはイングランドとアイルランドとの対立の前面に立ち、カトリックの信仰を守り続けることになる。イングランドはアイルランドのゲール化を憂慮し、キルケニーで開催した議会においてイングランド人がゲールの服を着、アイルランド語を話すことを禁止したが、ダブリンにおける行政府の権威が小さかったためこの命令はほとんど効果をあげなかった。15世紀の後半にはイングランドで薔薇戦争が勃発し、アイルランドにおけるイングランドの影響力はほぼ消失した。アイルランドにおける権威はキルデア伯フィッツジェラルド家が一手に握っていた。
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