ケネディ暗殺事件の報道
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「メリマン・スミス」の記事における「ケネディ暗殺事件の報道」の解説
1963年11月22日、ケネディ大統領のテキサス州ダラス訪問をUPIの主力記者として取材し、暗殺事件を速報した。 当時スミスは大統領公用車の車列のうち、無線電話を備えた報道陣用車両に乗り込んでいたが、銃撃が起きた瞬間、受話器を握りしめてUPIのダラス支局へ情報を入れた。連絡を受けたUPIが速報を配信したのは、ケネディ銃撃から4分後の午後0時34分(中部標準時)。速報電文は「ダラス中心部でケネディ大統領の車列に向かって3発の銃撃」(“DALLAS, NOV. 22 (UPI) – THREE SHOTS FIRED AT PRESIDENT KENNEDY’S MOTORCADE TODAY IN DOWNTOWN DALLAS.”)という1文だった。 速報を受けたアメリカのテレビ局も臨時ニュースへ移行していった。 「ケネディ大統領暗殺事件#ケネディ狙撃の速報と死去報道」を参照 車両にはAP通信のジャック・ベルとABCテレビのボブ・クラーク両記者も同乗していたが、スミスは口頭送稿を終えた後もダッシュボードの下にうずくまって受話器を独占し続けた。その間ベルは電話を奪取しようとスミスに殴りかかっていたという。スミスの行動には賛否両論があるが、スクープを狙う通信社記者の精神を表すエピソードとして紹介されることがしばしばある。この教訓からAPは大統領同行の際に、UPIと別の車に記者を分乗させるように改めた。 スミスはこの後にもスクープをものにする。搬送されたパークランド病院で、大統領専用車の後部座席に夫人の腕の中に頭部を抱きかかえられてぐったりしたケネディの姿を発見したスミスは、シークレットサービスのクリント・ヒル(英語版)に「容態は」と声を掛ける。「大統領は死んでいる」との耳打ちを受けてスミスは病院の電話に飛びつき、ヒルの話として大統領が致命傷を負ったとする速報を叩き込む。UPIがこの第2報を伝えたのは狙撃からわずか9分後のことだった。 スミスはケネディ暗殺報道で1964年、ピューリッツァー賞を受賞。この事件について「グラッシーノール」(茂みのある丘)と表現した初めての人物である。
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