ケストラーと日本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 06:06 UTC 版)
「アーサー・ケストラー」の記事における「ケストラーと日本」の解説
ケストラーの日本嫌いはつと知られたところであり、日露戦争における大日本帝国の勝利を「ヨーロッパ個人主義の終わり」と評していた。 1958年から1959年にかけて、アジアに新しい思想の活力を求めてインドと日本に滞在。日本滞在時に、京都の禅の高僧と議論したが、禅の非論理性に失望したという。 その1959年(昭和34年)に来日した際は、日本ペンクラブに対する声明で物議をかもしている。それは、1958年にソ連政府がボリス・パステルナークのノーベル文学賞授与を辞退させた際の、日本ペンクラブのソ連政府よりの姿勢を批判したものである。ケストラーの来日に関わる騒動は、当時、「ケストラー旋風」とよばれた。 戦前から欧米の知識人に広く読者を持っていた禅学者の鈴木大拙の著作『東洋の心』の一文によると、この時期、禅を批判したケストラーの長い評論の載ったイギリスの月刊雑誌「エンカウンター」が大拙の元に届けられている(この雑誌の主宰はアーウィング・クリストルとスティーブン・スペンダー)。鈴木大拙には禅思想の立場から機械的観念論を批判した文章が多い。ケストラーが『機械の中の幽霊』[5]を出版したのは鈴木大拙死去の翌年1967年のことである。
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