クーパー・クリークへの帰路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 09:25 UTC 版)
「バーク・ウィルズ探検隊」の記事における「クーパー・クリークへの帰路」の解説
バークはブラーエに、補給隊は3か月間クーパー・クリークの補給地にとどまるよう頼んでいた。補給隊は実際は4か月以上とどまったが、彼らの食糧が底をつき始め、壊血病の兆しが現れ始めた。補給地の周囲にはビタミンを豊富に含むスベリヒユが生えていたが、これを食用に供する事は無かった。彼らはバーク隊がカーペンタリア湾から戻ってこられなかったと信じこんだ。ブラーエはクーパー・クリークを発つことに決め、メニンディーへ戻ることにした。しかし発つ前に、バークが戻った場合に備え食糧と手紙を埋め、その場所の目印となる木に伝言を刻んだ。 ブラーエが補給所を発つと決めたのは1861年4月21日の日曜日であったが、同じ日の夕方にバーク、ウィルズとキングがクーパー・クリーク補給地へたどり着いた。彼らが目にしたのは、無人の補給地だった。彼らは箱の中から食糧と手紙を取り出し、ブラーエ隊が自分たちを待つのをあきらめて今朝発ったことを知らされた。バークたちはわずか9時間違いでクーパー・クリーク補給地へやってきたのだった。3人はブラーエ隊を追いかける気力を失っていた。 彼らは休んで立ち直ろうとし、ブラーエ隊が残していったわずかな食糧で命をつないだ。そして彼らは最も海岸部から遠い南オーストラリアの辺境の定住地、マウント・ホープレスへ向かおうとした。これは、砂漠を通過する240キロの行程を旅することを意味した。彼らは絶望的な状況を紙に書き、それを目印の木の根本に埋めた。この一帯を救助隊が訪れることを期待したのである。彼らは木の目印を変えたり日付を変更をしなかった。4月23日、彼らは救助を求めて、マウント・ホープレスを目指してストルゼレツキ砂漠へ発った。 その間、メニンディーへ戻る途中のブラーエ隊は、備品を運んでクーパー・クリーク補給地へ向かうライト隊と出会った。2人の男が、補給地へ引き返してバーク達が戻っているかどうか確認することにした。彼らが5月8日にクーパー・クリーク補給地に着くと、すでにバークらはマウント・ホープレスへ向けて発った後で、無人であった。バークらはこの場所から35キロ離れた所にいた。目印の木は変わっておらず、ブラーエとライトはバークが戻ってこられなかったとみなした。彼らは、埋めた食糧と手紙がまだあるかどうか確かめなかった。彼らは合流して、メニンディーへ向けて出発した。 一方、ウィリアム・ライトが率いた別働隊についていえば、こちらはこちらで深刻な問題を抱えていた。彼はメニンディーからクーパー・クリークへ食糧と備品を供給することになっていた。しかし手持ちの資金が尽きかけていたのと運搬用の家畜が少なすぎたことから、彼は1月末まで動けなかったのである。のちに、バークとウィルズの死の原因は、最終的にライトの遅延に帰せられている(ニューイングランド大学におけるトム・バージン博士の修士論文は、その一部をライトの行動に関する詳細な研究にあてている。1982年)。酷暑と飲料水の欠乏がライト隊の移動を徐々に遅くさせ、先住民バンジガリ族とカレンガパ族に苦しめられた。隊の3人、ルートヴィヒ・ベッカー、チャールズ・ストーン、ウィリアム・パーセルが旅の途上栄養失調で死んだ。北へ向かう途上、ライトはバロー川のクーリアット・ウォーターホールで野営し、クーパー・クリーク補給地へ向かうバーク隊の痕跡を探した。彼がそこにいる間に、補給地からメニンディーへ引き返す途中のブラーエ隊に出会ったのである。
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