クラブの結成
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1864年にハクスリーはフッカーへの手紙で友人グループと疎遠になるのが恐ろしいと述べた。ハクスリーは友人たちの社会的結束を維持するためにダイニングクラブの結成を提案し、フッカーはすぐに同意した。ハクスリーは親睦がクラブの唯一の目的であると常に主張していたが、他のメンバー、特にハーストは他の目的があると主張した。実際に最初の会合を彼は「科学への献身、純粋さと自由、宗教的ドグマからの解放」と描写し、協調の努力が役立つときがくると予測した。 初の会合の夜にハクスリーは冗談でブラストダーミック・クラブ(胚盤葉クラブ、胚盤葉は全ての鳥類の発生の基盤となる)と提案した。このため、一部の歴史家はハクスリーが新たなクラブが科学の発展のガイド役となることを望んだと感じる。サーロウ・クラブという名称も提案された。これは当時の「非正統な意見を表明する自由運動」にちなんでいるが、どちらも却下された。スペンサーが後に語ったところによるとXクラブという名称は1865年5月に決まった。それは「何も意味していない」。名前そのものはハーストによればバスク夫人から提案された。 会合は休暇中に当たる7,8,9月を除く毎月第一木曜に行われると決まった。バーリントンハウスで午後8時か8時半から行われるロンドン王立協会の会議に間に合うように、夕食会はいつも午後6時から行われた。 初の会合には8人が集まった。スポティスウッドは第二回の会合から出席した。生理学者ウィリアム・ベンジャミン・カーペンターと建築家ジェームズ・ファーガソンも誘われたが彼らは辞退した。スペンサーによれば後の議論で、クラブ以外の人々は親しくなかったか十分に知的でなかったために、これ以上メンバーを増やさないことが決められた。それに対してハクスリーは、新しい名前が挙がっても旧メンバー全員の同意を得られなかったために誰も入れなかったと書き残している。 スペンサーによればクラブの規則は唯一「規則がないこと」であったが、1885年に会合の公式な記録が付けられることになったためにその規則は破られた。またスペンサーの説明に反してクラブは会計と書記を持っていた。どちらもメンバーが持ち回りで担当し、会費を集め、次の会合の予定を通知した。 ハースト、ハクスリー、フッカー、ティンダルは非公式の記録を書き残している。
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