キンボールによる証言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 14:31 UTC 版)
「リパブリック讃歌」の記事における「キンボールによる証言」の解説
1890年、南北戦争の際にボストンの第2歩兵大隊(通称、タイガース大隊)に所属していたジョージ・キンボールは「ジョン・ブラウンの体は」の成立の経緯について雑誌『ニューイングランド・マガジン(英語版)』に次の様に記した。 我々の大隊には一人の陽気なスコットランド人がおり、名前はジョン・ブラウンといった。彼は古き英雄と同姓同名であったことから親しい同僚たちから頻繁にからかわれていた。もし彼が集合に遅れたり作業に手間取った場合には仲間から「早く来いよ年老いた同士。奴隷を自由にするための手助けをする気があるなら速やかに作業に取り組まなければな」や「彼はジョン・ブラウンにはなれない。なぜならジョン・ブラウンは亡くなったのだから」といった表現で迎えられることが恒例となっていた。そして何人かのお調子者はジョン・ブラウンが亡くなったことを強調するように厳粛かつゆっくりとした口調で「その通りさ、哀れなジョン・ブラウンは墓の中で朽ち果てたのさ」などの台詞で応じた。 キンボールによると、これらの言葉が兵士の間の決まり文句となり上記した「やあ、兄弟達よ、我らに会わないか」のメロディに合わせて歌われるようになり、いくつかの変遷を経て「ジョン・ブラウンの体は」が完成した。1861年5月12日に大隊本部のあるウォーレン砦(英語版)で新兵訓練のための国旗掲揚式を行った際に公式の場において初の演奏がなされ、同年5月または6月から7月にかけて楽譜が出版されたことを契機に流行歌となった。なお、この歌で取り上げられた第2歩兵大隊のジョン・ブラウン軍曹は1862年6月6日にバージニア州にあるラパハノック川(英語版)を行軍中に水死した。
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