キューバ&ラスベガス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/09 21:42 UTC 版)
「ヴィンセント・アロ」の記事における「キューバ&ラスベガス」の解説
1940年代後半からランスキーのキューバプロジェクトに関わり始めた。ハバナのホテル・ナショナルのカジノ権益をランスキーと共有して運営した。1950年代摘発が厳しくなったフロリダからラスベガスに拠点を移し、ランスキーと共にホテル・サンズのカジノに収益ソースを広げ、一家の収入に多大な貢献をした。1952~1953年にかけてロス地元のジャック・ドラグナ一家との縄張り争いの解決に奔走した。この頃一家の幹部となった。1956年アドニスが密入国容疑で追放されるとその兵隊を引き継いだ。1957年、コステロに代わってボスの座に就いたヴィト・ジェノヴェーゼの下、ランスキーやサント・トラフィカンテらとキューバのカジノを続けたが、1959年に起こったキューバ革命でマフィアの資産が接収され、事実上の撤退を余儀なくされた。1960年代までにフロリダに再び舞い戻った。ジョージ・ラフトが経営したロンドンの高級カジノ"コロニークラブ"の裏のオーナーはアロ&ランスキーだった。 1963年9月、アロが面倒見ていたブロンクスの高利貸し事業が摘発された。高利貸しでは最大156%の暴利を得ていたという。1965年12月、連邦大陪審に出廷したアロは、ハーレム&ブロンクスの縄張りを持ち、臨海区やマンハッタンのガーメント・ディストリクトにも利権を持つギャングと描写された。1969年、マイアミ・ビーチで開かれたマフィア会議に参加した。シカゴからトニー・アッカルドやポール・リッカ、ニューヨークからカルロ・ガンビーノやアンソニー・リッチ、ランスキー、ほかカンサスのマフィア勢などが参加していたと伝えられた。
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