キャフタ条約 (1915年)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > キャフタ条約 (1915年)の意味・解説 

キャフタ条約 (1915年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/14 23:37 UTC 版)

1915年のモンゴル
キャフタ条約
中国代表、ロシア代表、外蒙古代表によるキャフタ条約への調印
署名 1915年5月25日
署名場所 ロシア帝国キャフタ
締約国 ロシア帝国
中華民国北京政府
ボグド・ハーン政権
批准国 ニコライ2世
袁世凱
ボグド・ハーン

キャフタ条約(きゃふたじょうやく、: The Treaty of Kyakhta中国語:中俄蒙協約)は、1915年5月25日に、ロシア帝国、モンゴル(ボグド・ハーン政権)、中華民国北京政府との間で締結された条約である。

ロシア帝国と中国は、中国の領土として外蒙古の自治を認め、モンゴルは中国を宗主国として認めた。モンゴルは政治的問題、領土問題について外国と国際条約を締結することができなくなった。

モンゴル代表の首相トグス・オチリン・ナムナンスレン英語版は、自治を事実上の独立まで拡大しようと努め、漠然として効果がない宗主国以上のものを拒否しようとした。中国側は、仮にモンゴルの自治を終わらせないとしても、最小限にしようとした。モンゴルは、モンゴル全体の真の独立承認を否定したがゆえに、条約を災害のように見なした。外蒙古は、効果的に中国の支配下から外れようとして[1]、ロシア外務省法務部長のbaron B.E. Noldeの説明の通り、当時の国際法に基づく国家としての全ての属性が必要だった[2]

条約により、1911年に宣言されたモンゴルの独立的な地位が大幅に削減されたものの、最終的には1917年に勃発したロシアの十月革命の後に現実的な意味を無くし、1921年にモンゴル人民共和国を宣言した。

関連項目

注釈

  1. ^ Batsaikhan, O. The Last King of Mongolia, Bogdo Jebtsundamba Khutuktu. Ulaanbaatar: Admon, 2008, p.290-293 - ISBN 978-99929-0-464-0
  2. ^ Kuzmin, S.L. Сentenary of the Kyakhta Agreement of 1915 between Russia, Mongolia and China. – Asia and Africa Today (Moscow), 2015, no 4, p. 60-63



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  キャフタ条約 (1915年)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「キャフタ条約 (1915年)」の関連用語

キャフタ条約 (1915年)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



キャフタ条約 (1915年)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのキャフタ条約 (1915年) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS