ガウルの虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/12 06:54 UTC 版)
「マデシ人権フォーラム」の記事における「ガウルの虐殺」の解説
3月7日、大規模なゼネストを再開。3月16日、8党連合の集会を攻撃。同日午後、パルサ地区のネパール会議派の事務所を襲撃。3月21日,ガウルでフォーラムと毛派系団体が同時に集会を開催し、両者は衝突。12人の遺体が現場から見つかり、さらに5キロ離れた地点で15体の遺体が発見された。その大部分は毛沢東派の活動家であった。この虐殺行為に対し、毛派のプラチャンダ議長はフォーラムをニカラグアの反革命勢力コントラに例え、フォーラムをネパール民主化を妨害する帝国主義者の手先であると非難した。毛派の提案により暫定議会は虐殺の非難と犯人の逮捕命令を全会一致で可決した。 2007年4月、人権条約監視委員会はガウル事件を調査し、フォーラムが死に至る拷問や3件の強姦などの大規模な人権侵害を行ったと結論した。フォーラム側のスポークスマンは、ガウルで攻撃を仕掛けたのは毛派であり、フォーラムは単に報復したにすぎないと主張した。 2007年4月、政府との協議が再開する。フォーラム側は、選挙区の削減の中止と、マデシ地方の安全の保証を要求した。 4月20日から4月22日にかけて、フォーラムはゼネストを行い、コイララ首相の演説が予定されていたネパール会議派の集会を中止に追い込んだ。ストは広範囲で交通を麻痺させた。
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