カルタゴ逆侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 23:55 UTC 版)
ローマに帰国したスキピオは英雄として称えられた。スキピオは執政官に必要な年齢に達していなかったが、特例として紀元前205年の執政官に選出された。カルタゴとの戦争に決着をつけるため、スキピオは敵本土への直接攻撃を訴えたが、元老院はこれに難色を示した。ファビウスや大カトが反対派の急先鋒となり、結局元老院はこの提案を退けた。スキピオはシチリアに派遣され、その地で軍隊を徴募した。翌紀元前204年、スキピオはプロコンスル(前執政官)として軍団を率い、北アフリカのウティカへ上陸した。 カルタゴ軍はヌミディア軍と協同して迎撃に向かったが、スキピオはこれを一蹴した(ウティカの戦い)。余勢を駆ったスキピオはヌミディアへ侵攻し、バグラデス川の戦いでの大勝の後にヌミディア王シュファクスを捕縛(キルタの戦い)、自身の保護下にあったヌミディアの王子マシニッサを王に即位させてアフリカにおける同盟国を得た。しかもそれは同時に屈強な騎兵をカルタゴから奪い取ることでもあった。カルタゴはイタリア半島のハンニバルを呼び戻して戦力を再編する一方で、ローマに休戦を打診した。ローマの元老院は申し出を了承したが、不測の事態が起きて交渉は決裂した。カルタゴはハンニバルに約50,000名の兵と80頭の戦象を率いさせて派遣し、スキピオも約40,000名の兵を率いてヌミディアからカルタゴへ兵を返した。紀元前202年10月19日、両軍はザマの西方で対峙した。 ハンニバルは最初に戦象を突撃させたが、スキピオはこれを予測して部隊を配置していたため、突撃はほとんど威力を発揮しなかった。カルタゴ軍はローマ兵に包囲された。歩兵のおよそ半数が降伏し、降伏を拒否した者は殺戮された(ザマの戦い)。
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