オーストリア・ナチスの伸長とドルフースによる弾圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 16:08 UTC 版)
「アンシュルス」の記事における「オーストリア・ナチスの伸長とドルフースによる弾圧」の解説
ドイツにおいて多くの国民から支持を受け、議席および勢力の拡大を続けていたナチス党の活動はオーストリアにも波及してきた。1932年の地方選挙において、「オーストリアの国家社会主義ドイツ労働者党 - ヒトラー運動(ドイツ語版)」(オーストリア・ナチス)は既存の右派集団である護国団を上回る実力を見せ、一方護国団の一部が暴走してクーデター計画を立てて失敗したことによって、保守的・反共的な思想の人々の支持が急速にナチスに移りつつあった。 1933年、ドイツで(オーストリア生まれの)ヒトラー政権が誕生すると、その支援を受けたオーストリアのナチス党員が公然と暴力によるオーストリアの政権奪取とドイツへの併合を主張し始めた。6月19日にはクレムス・アン・デア・ドナウで手榴弾攻撃が行われたことによってオーストリア・ナチスとその関連団体は禁止された。キリスト教社会党と護国団を基盤としたドルフース政権は1934年の2月内乱をきっかけに、オーストリア社会民主党とナチスの弾圧に動いた。そして、いわゆるオーストロファシズム体制と呼ばれる一種のカトリックの権威に基づいた権威主義体制を打ち立てた。これには、ドイツと友好的な関係を持ちつつも、ドイツによるオーストリア併合に反対するイタリアのムッソリーニの支援があった。また、ハンガリー王国のゲンベシュ・ジュラ首相もドイツ・オーストリア・イタリアを調停する動きを見せていたが、あくまでオーストリア・ナチスの解禁とドイツによるアンシュルスが行われないことを前提としていたものであった。 1934年6月12日、ヒトラーはムッソリーニとの会談でアンシュルスは差し迫った問題ではないと釈明する一方で、反ナチスであるドルフースは替えるべきであると述べたが、ムッソリーニは拒絶した。
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