オリエンタルプロレス時代
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1991年2月には、経営難に陥ったパイオニア戦志ごとSWSに吸収し、元横綱の北尾光司をエースに立てた別動隊の母体としようとする動きがあり、当時のメガネスーパーの田中八郎社長から既に支度金も受け取っていたという。しかし、数々の因縁により選手会のほぼ全員から猛反対を喰らい立消えになった。1年半の休止後に、ジャパン女子プロレス(1992年2月解散)の代表を務めていた持丸常吉の協力を得て、1992年6月に新団体『オリエンタルプロレス』として再出発した。 ジェシー・バーをはじめ実力派外国人レスラーの参戦、『出前プロレス』、『ほっかほかビデオ』などユニークな企画で滑り出し数戦は好調だったが、長州の人脈で借りたフロント陣が次々と去っただけでなく、4か月後の同年11月の千葉県船橋市大会(金網デスマッチ、対ブルースブラザース)を最後に、海外遠征の利益をピンハネするなどのギャラ搾取に怒った選手会が、代表の剛の永久追放処分を発表。剛にとっては1986年の全日本解雇に次ぐ2度目の団体解雇となった。これは若手との軋轢とも、売り上げを巡って広報担当やスタッフと揉めたためとも伝えられた。オリプロには高杉、板倉広と新弟子だけが残され、W★INGプロモーションやユニバーサル・プロレスリング、宮川道場との交流戦で食い繋いだ。なお、オリプロは1993年12月に崩壊している。
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