オイルショックと計画の転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 09:08 UTC 版)
「多摩ニュータウン」の記事における「オイルショックと計画の転換」の解説
1974年のオイルショックで高度経済成長は終焉し、大都市圏で旺盛だった住宅需要は一気に落ち込んだ。住宅不足は解消し、住宅不足を解決するための画一的な住宅は販売不振に陥った。このように社会情勢が大きく変化したなかで、多摩ニュータウンは「少しでも早く安く、計画的な良好な都市を大規模に提供する」ことから、「時間をかけて理想的な都市を作る」ことが要求されるようになった。こうして、個性的なタウンハウス住宅やコーポラティブハウスやプラスワン住宅、一般公募宅地分譲住宅等、多彩な住宅が供給されてゆき、多摩ニュータウンは理想的な都市を作るという計画に転換していったまた住宅だけでなく、業務機能(オフィス)も追加された。 一方でそのころ、多摩市内では小中学校等の公共施設の建設費の負担が大きな問題となり、開発が中断されていた。当初の負担ルールでは、多摩ニュータウンの新住民が一挙に多摩市に移り住んだ場合、行政需要の急激な増大から約14年で100億円の累積赤字が出ると試算され、当時の多摩市の財政規模では立ち行かなくなることが予想されていたためである。これは1974年10月、学校の土地・建物を事実上、東京都が全額負担するという取り決めを盛り込んだ行財政要綱が定められたことで開発は再開したが、他にも30%以上の緑とオープン・スペースを確保することが盛り込まれ、これも以降の多摩ニュータウンの街づくりに大きな影響を与えた。その結果、多摩ニュータウンはオープン・スペースに関係して、2005年までの間に都市再生機構施行区域だけで、緑の都市賞を2度、日本都市計画学会賞を2度、都市景観大賞を3度、日本造園学会特別賞、日本不動産学会業績賞を受賞することにつながった。
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