エンケ_(オイラト)とは? わかりやすく解説

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エンケ (オイラト)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/24 07:07 UTC 版)

エンケ(Engke、生没年不詳)は、15世紀中後期のホイト部の統治者。漢文史料上では昂克(ángkè)/俺克(ǎnkè)などと表記される。

各種モンゴル年代記で言及される、「オギテイ・タイブ(Ögitei Tayibu)」という人物と同一人物ではないかとする説がある(後述)。

概要

オイラト三王鼎立期

1410年代、ドルベン・オイラトには順寧王マフムードチョロースの長)・賢義王太平トルグートの長)・安楽王バト・ボロトホイトの長)という三人の有力者が並び立っており、エンケは安楽王の弟であったと伝えられている。エンケが初めて史料上に登場するのは永楽16年(1418年)3月のことで、「賢義王タイピン(太平)・安楽王バト・ボロト(把禿孛羅)および弟のエンケ(昂克)並びに順寧王マフムード(馬哈木)の子のトゴン(脱歓)らが各々使者を派遣した」とされ[1]、また同年4月にこれらの者達に下賜がなされたとの記録がある[2][3]。これより先、永楽13年(1415年)末にはアルクタイ率いるモンゴル軍とオイラト軍の間に大規模な戦闘が起こり、大敗を喫したオイラト軍では順寧王マフムードとダルバク・ハーンが殺されるに至っていた[3]。これによって順寧王家が一時衰退する中で、安楽王家が相対的に存在感を増し、エンケも表舞台に立つようになったものと考えられている[3]

この時期、オイラトで最も有力であったのは賢義王太平(エセク)であり、永楽17年(1419年)正月[4]や永楽19年(1421年)2月[5]にはエセクや兄のバト・ボロトと共同でエセクも明朝に使者を派遣したとの記録がある[6]。しかし、永楽22年(1424年)にはマフムードの息子で順寧王位を継いだトゴンが賢義王太平を殺害するという事件が起こり、安楽王バト・ボロトはオイラト内で最年長の有力者となった[6]。この情勢下で、洪熙元年(1425年)正月には安楽王バト・ボロトが主体となり、「子の亦剌恩および酋長ネレグ(乃剌忽)・エンケ(昂克)・トゴン(脱歓)・アラク(哈剌)・八丁」らとともに明朝に使者を派遣している[7]。ここでは、エンケが賢義王家(乃剌忽)・順寧王家(脱歓)の当主に匹敵する地位であるが、安楽王バト・ボロトの息子の亦剌恩よりは低い地位にあったことが窺える[6]

トゴン太師の時代

しかし詳細は不明であるが安楽王バト・ボロトも宣徳年間の初めに没落し、1430年代にはトゴンを最高実力者とするオイラトの体制が確立した。宣徳5年(1430年)5月の貢使では「瓦剌順寧王脱歓属」として「エンケ(演克)・アラク(阿剌)等」登場するが[8]、恐らくはこれ以前にトゴンが安楽王バト・ボロトを打倒する際、これを見限ってトゴンの配下に入ったものと考えられる[9]

さらに正統3年(1438年)正月にはトゴンが「太師」を称するようになり、ほぼ同時期にエンケも「丞相」を称した[10]。また正統4年(1439年)条では「左丞相」とも表記されており[11]、恐らく正統2年(1437年)ころよりエンケは「左丞相」を称するようになり、名実ともに「太師」トゴンに次ぐ地位を得ていたとみられる[12]

エセン太師の時代

しかし正統5年(1440年)にトゴンが死去した後、その息子のエセンが「太師」の地位を継承し、正統6年(1441年)5月には「太師淮王エセン(也先)・エセンの弟の大同王・イェケンボロト(也勤孛羅)」の三名が中心となって明朝に使者を派遣している[13]。これ以後も、かつてエンケと名を連ねていたアラク・テムルが明朝への使者派遣で言及されるにも関わらず、正統年間を通じてエンケはほとんど名を挙げられなくなってしまう[14]。正統5年(1440年)には賢義王太平の息子のネレグがエセンと対立した末に殺されるという事件が起こっており、安楽王家の勢力を受け継いだエンケも、ネレグとよく似た立場の危険人物としてエセンに警戒され、遠ざけられたのではないかと考えられている[15]。後述するモンゴル年代記の記述からも、エンケがエセンより重用されなかったことが窺える[16]

しかし正統14年(1449年)に土木の変が起こると、捕虜となった明の英宗のために多くの人物が明朝からモンゴリアに派遣されるようになり、これによってエンケも漢文史料上で言及されるようになる[17]。景泰元年(1450年)7月には明朝から派遣された楊善がエセンの下に至り、問答の中で近くに控えていたエンケより「汝は皇帝を迎えるに当たり、何の礼物を持ってきたのか?」と尋ねられたとの記録がある[18][17]。同年8月には英宗を送還することとなり、英宗の世話をしていたバヤン・テムルが護送する途中、平章エンケが狩猟で射た獲物を献上したという[19][20][21]。英宗が帰還した後、捕虜であった頃にエンケが馬匹・人口を進上したことに感謝して、同年11月に紵絲・表裏が下賜されている[22][21]。以上の記録より、このころのエンケがバヤン・テムルの属下にあったことが窺える[21]

東部モンゴリアへの移住

その後、エセンはタイスン・ハーンを弑逆して自らハーン位に就くに至ったが、配下のアラク知院の反乱を受けて景泰5年(1454年)8月に殺されてしまった。これを受けて、エセンによって併合された東部モンゴリアはマルコルギス・ハーンを推戴して自立を果し、景泰6年(1455年)4月に明朝に使者を派遣した。この時使者を派遣したモンゴルの有力者たちは「スルタン(鎖魯檀)・平章エンケ(昂克)・モーノハイ(卯那孩)・ボライ(孛羅)」らであり、本来はオイラトの首領であるエンケが名を連ねている[23][24]。恐らくはかねてよりエセンの冷遇に不満を抱いていたエンケは、エセンの死をきっかけとしてモンゴル側に投じたものとみられる[25]。この使者が帰還する際にモンゴルの領侯に賞腸を行っているが、その筆頭は「王子マルコルギス(麻児可児)および平章エンケ(昂克)」で[26]、当時のエンケの高い地位が窺える[27]

しかしこれが漢文史料上でのエンケの最後の記事であり、以後エンケの動向は史料上にみられなくなる [27]。エンケは既に40年近く活動しており、かなりの高齢であったと推定されることから、李志遠は自然死であろう、と指摘する[28]。東モンゴリアにおけるエンケの勢力は恐らくボライに奪われてしまったが、西モンゴリア(オイラト)に残留したホイト部は存続し、アルタン・ハーンによって討伐されたウチレイ太師はエンケらの末裔と推定される[28]

モンゴル年代記での記述

各種モンゴル年代記ではオイラトの勇士であったが、エセンの支配に不満を覚え、モンゴル側に転じた「オギテイ・タイブ(Ögitei Tayibu)」なる人物について言及されている。この人物について、『蒙古源流』ではOyirad Γool-mingγan Ögidei tayibu、『アサラクチ史』ではÖgidei baγaturといった表記がみられるが、『アルタン・トプチ』でのみEgeteiと表記される箇所がある。李志遠はこれを「エンケテイ(Engketei)」の崩れた形と見なし、『正統臨戎録』で「俺克」とも表記されるエンケと同一人物ではないか、との説を提唱している。また、「Tayibu」は「太傅/太保」いずれかの音写と考えられるが、漢文史料上でエンケが「左丞相」とされることを踏まえ、「左丞相」とセットで称することの多い「太傅」が正しいと推定される[3]。同じく『アルタン・トプチ』では「oi modunのÖgedei tayipu」との表記も見られるが、modunは「樹木」を意味し、まさに「ホイン・イルゲン(森林の民)」であった「本来のオイラト」を指すものとみられる。以上を踏まえ、李志遠は安楽王家はoi modun=本来のオイラトの後身で、ホイト部の統治者であったと推定している。また、『蒙古源流』に見える「ゴル・ミンガンΓool-mingγan」は直訳すると「中央の千人隊」を意味し、アリクブケ・ウルスの「中軍」であったオイラトの別名ではないか、とも指摘されている。

各種モンゴル年代記では、オギテイはエセンがハーン位に就いた頃に登場し、「私は13歳で先鋒となり、大いに勲功を立てたのである。それなのにエセンは私を大切にしない」と述べてエセンの治世に不満を漏らしていたとされる[29]。なお、李志遠はここで触れられる「13歳での初陣」は明・モンゴル・オイラト三者の間で戦闘が頻発した永楽10年~12年頃のことと推定しており、これによって逆算すると、おおよそ1400年ころの生まれと推定される[9]。エセンはハーンを称してより、チンギス・カンの血を引く者たちを殺戮しており、チンギス・カン家のハルグチュク・タイジとエセンの娘のセチェク妃子の間に生まれたボルフ・ジノンも命を狙われていた。そこで、ある者がエセンに不満を抱くエンケに対し、「ボルフ・ジノンをモンゴルに送り届ければ、子孫に至るまで尊敬されるでしょう」と述べ、エンケはこれを引き受けるに至った。この時、エンケの姉が嫁いでいたタタルのトキ・バートルがオイラトの捕虜となっており、トキ・バートルの協力を得てエンケはボルフ・ジノンをオイラトの陣営から連れ出すのに成功した。

そして、エンケを筆頭に、ハラチンのボライ太師、サルタグルのバヤンタイ・アハラフ、ホンギラトのイスレイ太保の4名が協力してボルフ・ジノンをウリヤンハンのホトクト少師の下に送り届け、立ち去ったという。「ハラチンのボライ太師」は漢文史料に見える「孛羅/孛来」に他ならず、『明実録』によればボライはエセンが殺害された時にその近くにいたとされるので、必然的にボライがモンゴル側に投じたのはエセンの死の後のこととなる。なお、『シラ・トージ』のみはマンドゥールン・ハーンがボルフ・ジノンを送り届けた四人の大臣を称賛し、ダルハンの称号を与えたとの逸話があるが、他の年代記と合致せず、疑わしい。エンケらがボルフ・ジノンを預けて放置したのは不自然にも見えるが、これは既にマルコルギス・ハーンの擁立が既に進んでおり、ボルフ・ジノンを擁立することが出来なくなったためであろう、と考えられている[28]

脚注

  1. ^ 『明太宗実録』永楽十六年三月甲戌(二十四日),「太監海童指揮柏齡等自瓦剌還。賢義王太平・安楽王把禿孛羅及弟昂克并順寧王馬哈木子脱歓及頭目阿憐帖木児、各遣使奉表貢馬。脱歓請襲父爵」
  2. ^ 『明太宗実録』永楽十六年四月甲辰(二十四日),「遣太監海童・右軍都督僉事蘇火耳灰・都指揮程忠等齎勅、賜太平・把禿孛羅及昂克・脱歓等綵幣・表裏有差。命脱歓襲父爵為順寧王。……」
  3. ^ a b c d 李 2018, p. 38.
  4. ^ 『明太宗実録』永楽十七年正月丙寅(二十一日),「太監海童自瓦剌還、賢義王太平・安楽王把禿孛羅及其弟昂克遣使貢馬。順寧王脱歓遣使貢馬、謝襲爵恩倶賜之宴」
  5. ^ 『明太宗実録』永楽十九年二月戊申(十五日),「千戸脱力禿古等還自瓦剌、賢義王太平・安楽王把禿孛羅及昂克・賽因孛羅等各遣使貢馬。命礼部賜宴」
  6. ^ a b c 李 2018, p. 39.
  7. ^ 『明仁宗実録』洪熙元年正月壬辰(二十一日),「瓦剌安楽王把禿孛羅・子亦剌恩及酋長乃剌忽・昂克・脱歓・哈剌・八丁各貢馬、賜綵幣表裏有差。……」
  8. ^ 『明宣宗実録』宣徳五年五月丁未(八日),「命瓦剌順寧王脱歓所遣使臣脱火歹為都指揮僉事、餘授官有差。上嘉脱歓之誠、故授脱火歹等以官。命羽林前衛指揮使孫観等齎勅偕往、賜脱歓盔甲・綵幣等物。乃賜其属演克・阿剌等綵幣有差」
  9. ^ a b 李 2018, p. 40.
  10. ^ 『明英宗実録』正統三年正月丁未(二十二日),「遣指揮陳友等、齎勅同瓦剌使臣往諭順寧王脱歓曰……賜脱歓及其丞相昂克等并各以勅諭之」
  11. ^ 『明英宗実録』正統四年正月癸卯(二十四日),「瓦剌使回遣使齎勅賜達達可汗曰……賜丞相把把的・右丞相脱歓・左丞相昂克・知院孛的打力麻……等倶賞賜有差」
  12. ^ 李 2018, p. 41-42.
  13. ^ 李 2018, p. 43.
  14. ^ 李 2018, p. 43-44.
  15. ^ 李 2018, p. 44-45.
  16. ^ 李 2018, p. 44.
  17. ^ a b 李 2018, p. 45.
  18. ^ 『明英宗実録』景泰元年七月己巳(二十七日),「是日、都御史楊善等至虜営、与也先接見。……知院伯顔帖木児言于也先曰、且将使臣留下、再差人去問若許皇帝正天位、然後送去。也先曰、初要大臣来迎、今既来、又去問、是我失信了、著他迎去。平章昂克問善曰、汝迎皇帝、将何礼物来。善曰、若将礼物来迎人、必説太師図利、今不用礼物、方見得太師有仁義、是好男子、録在史書、万世人称贊。也先笑曰、者者」
  19. ^ 『明英宗実録』景泰元年八月辛巳(十日),「是日、虜酋也先遣得知院等、領人馬護送太上皇帝、駕至野狐嶺。得知院進馬、叩頭哭辞而去。仍遣大頭目率五百騎送至京師、行未数里、忽有五十餘騎追来、乃平章昂克射得一獐来献。是夕、駐蹕于宣府右衛城外官庁」
  20. ^ 『正統臨戎録』,「後行至野狐嶺口辺、有伯顔帖木児・俺克大平章同楊善・忠勇伯把台在東南辺。……次日、到于宣府住歇。一日擺宴、有少監郭敏進膳。将膳桌上的吃食等物、奉聖旨『着哈銘分与鎖那俺等、拏去与伯顔帖木児特知院・俺克平章』」
  21. ^ a b c 李 2018, p. 46.
  22. ^ 『明英宗実録』景泰元年十一月壬子(十二日),「礼部奏、太上皇帝在虜営之時、平章昂克等進馬匹・人口。宜給賜紵絲・表裏、以酬其直。従之」
  23. ^ 『明英宗実録』景泰六年四月戊戌(二十三日),「迤北王子麻児可児遣正副使皮児馬黒麻、鎖魯檀・平章昂克・卯那孩・孛羅遣使臣可可・宛者赤・板達阿里等、進貢馬駝至京言。孛羅以阿剌知院殺死也先、率兵攻之、殺敗阿剌、奪得玉宝并也先母妻」
  24. ^ 李 2018, p. 49.
  25. ^ 李 2018, p. 50.
  26. ^ 『明英宗実録』景泰六年五月壬戌(十八日),「迤北使臣皮児馬黒麻等陛辞、賜宴、命齎勅及綵幣・表裏。帰賜其王子麻児可児及平章昂克等勅曰……」
  27. ^ a b 李 2018, p. 51.
  28. ^ a b c 李 2018, p. 58.
  29. ^ 岡田 2004, pp. 206–207.

参考文献

  • 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 森川哲雄『モンゴル年代記』白帝社、2007年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
  • 李志遠『従斡亦剌到輝特——十五至十六世紀忽都合別乞家族及属部研究』、2018年
  • 宝音徳力根Buyandelger「15世紀中葉前的北元可汗世系及政局」『蒙古史研究』第6輯、2000年



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