エリザベート皇后鉄道
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「オーストリア西部鉄道」の記事における「エリザベート皇后鉄道」の解説
「ローゼンハイム - ザルツブルク線#歴史」も参照 オーストリア帝国時代に西部鉄道はオーストリア南部鉄道やフェルディナント皇帝北部鉄道よりあまりに重要な路線ではなかった。前者はアードリア海の港へ、後者はボヘミア及びモラヴィアの炭田へ通じていた。それに比べて西部鉄道はザルツブルク及びバイエルンと結ばれ、経路はドナウ河の水運と平行であった。従ってこの路線の建設工事は南部鉄道と北部鉄道の開通以後に漸く始まった。 1851年6月21日にバイエルンとオーストリアの間に締結された条約によりウィーン - ザルツブルク区間の建設が確定された。ブルック・アン・デア・ムル経由の路線は高い費用のため実現不可と判明された。実業家であったヘルマン・リントハイム (Herman Dietrich Lindheim, 1790~1860) は総監督であったカイスラーにウィーン - リンツ - ザルツブルク区間の鉄道建設計画を委託して、1854年10月その件で予備敷設免許を獲得した。リントハイムは資金調達のために実業家であったメルクと共にコンソーシアムを設立して、そのコンソーシアムには1856年6月22日株式会社の形が整えられた。 1856年3月8日帝国政府はエリザベート皇后鉄道に敷設許可を与えて、90年間の有効期間、5%の利子率、固定資産の返済は許可書に明示された。1856年4月21日バイエルンとオーストリア間の二番目の条約は、両国の互いに条約を批准した日から5年以内に鉄道を開通する義務条項を含めて締結された。1858年12月15日ウィーン - リンツ区間が開通された。1859年に建設工事は活動的に実行されて、同年9月1日にリンツ - ランバッハ区間が開業されて、その区間は既存の第一鉄道会社(k.k.previlegierte Erste Eisenbahn-Gesellschaft)の区間とほとんど一致した。1860年2月1日にランバッハ - フランケンマルクト区間が貨物輸送向けに開通されて、一ヶ月後旅客列車もその区間に通行した。最後に、フランケンマルクト - ザルツブルク区間は同年8月1日に開業された。 1860年8月12日公式開通行事がザルツブルクで行われて、フランツ・ヨーゼフ1世とマクシミリアン2世はその宴に参席した。エリサベート皇后は故郷を訪問するために、開通の数週前に既に列車を利用した。 1870年代には聖ヴァレンティン - ヴェルス区間に二番目の線路が設置された。1884年西部鉄道は他のエリザベート皇后鉄道路線と共に王立オーストリア国鉄に引き受けられ、国営路線となった。1898年から1902年までヴェルス - ザルツブルク区間の複線化は段階的に進行された。
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