エムス電報事件
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「フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク」の記事における「エムス電報事件」の解説
普仏戦争前の1870年7月13日にはバート・エムスで療養中のヴィルヘルム1世に随伴してフランス外交官ベネデッティ伯爵(英語版)と交渉、内容をベルリンのビスマルクに送ると、電報内容を改竄して公表するエムス電報事件が起こった。 その後、ビスマルクの干渉もあったため1878年11月30日に辞任、後任は甥のボート・ツー・オイレンブルクである。
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エムス電報事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 23:27 UTC 版)
「ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の記事における「エムス電報事件」の解説
ヴィルヘルムはこれで危機は収束すると思っていたが、フランス国内はそれだけでは満足しなかった。ナポレオン3世もヴィルヘルム本人からレオポルトのスペイン王立候補への反対、また将来にわたっても立候補をさせないという言質を取らねばならないと考えて、駐プロイセン・フランス大使ヴァンサン・ベネデッティ(フランス語版)伯爵をヴィルヘルム1世が保養中だったバート・エムスへ派遣した。 ベネデッティは7月13日朝、バート・エムスの散歩道を歩くヴィルヘルム1世に随伴して会談を行い、レオポルト立候補中止を明確に宣言すること、レオポルト立候補に承諾を与えた行為はフランス国民の利益と名誉を害しようという意図で行ったものではなかったと宣言すること、再びレオポルトが立候補する場合には反対すると明言することを求めた。ヴィルヘルム1世は「すでにカール・アントン侯が彼の息子が立候補を断念したことを確認している。私は以前に彼の立候補を承諾した時と同じ意味、同じ規模でそれを承諾する」とだけ述べて、フランスに何か弁解的な宣言を出すことは拒否した。そして後に侍従を通して現時点の情報でベネデッティに言う事はないとしてこれ以上の引見は拒否した。 そしてこの経緯を電報でビスマルクに伝えさせ、それを公表すべきか否か、公表する場合どのように公表するかの判断を彼に一任した。ビスマルクは「フランス大使はエムスで陛下に対してホーエンツォレルン家が改めてスペイン王に立候補する場合、将来にわたって二度とそれを承諾しないと宣言することを求めた。その後陛下はフランス大使を引見されることを拒否され、侍従を通してこれ以上何も言う事はないとフランス大使に伝えられた。」と発表した。「これ以上何も言う事はない」の意味を簡略化して伝えることで「交渉の余地はない」という意味かのようにすり替えていた。 ビスマルクの発表した電報をみたヴィルヘルム1世は「これでは戦争になるぞ」と叫んだという。
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