エミリー・ディキンソンとの交流
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「トーマス・ウェントワース・ヒギンソン」の記事における「エミリー・ディキンソンとの交流」の解説
トーマスは、エミリー・ディキンソンの文通相手であり、文学的に影響を与えた者として記憶されている。 1862年4月、トーマスは、『若き寄稿者への手紙』と題した一文を「アトランティック・マンスリー」に寄せて、実力を付けつつある若い作家たちにステップアップのための助言をしている。マサチューセッツ州アマースト出身、当時32歳のエミリー・ディキンソンは、トーマスに手紙を書き、「私の詩が命のあるものか判断していただくお時間はないでしょうか」(Letter 261)として4編の詩を同封した。彼は返事を出し、ディキンソンの未熟で風変わりな詩に丁寧に「手術」(つまり批評)を施し、ディキンソンの個人的・文学的背景を問い、さらなる詩作を求めた。 トーマスの次の手紙には賞賛が込められており、ディキンソンをして、私が「そのお手紙に酔いしれることがなかった」のは「前もってラム酒をあおっていたからではありませんでした」との返事を書かせたほどだった。一方で、「先生のご意見ほど深い喜びを私は持ち合わせておりません。もし、私が感謝を申し上げようとすれば、私は涙でうまく言葉が紡げなくなります」とも書いている(Letter 265)。もっとも、トーマスは同じ手紙の中で、彼女が自作の詩を発表するにあたっては、その技法と様式が伝統から外れていることを警告している。 トーマスは、ディキンソンをほとんど自分の手には負えないと思いつつも、徐々に彼女の指南役であり「手本」になっていった。「蜜蜂がいたずら小僧の手を逃れるようには、私は彼女から逃れることができなかった。今だって、私は少年のように戸惑って立ちすくむ」と彼は書いている(『エミリー・ディキンソン書簡』、「アトランティック・マンスリー」1891年10月号所収)。ディキンソンの死後、彼はメイベル・ルーミス・トッド(英語版)と共同で伝統的な句読法、語法、韻律に合うように編集を加えて彼女の詩集を出版している。トーマスとディキンソンの交流の経緯をまとめた『White Heat』(2008年・Knopf社刊)において、著者ブレンダ・ワインアップル(英語版)は、トーマスが歴史家らが思っているような文学的な編集者であるよりは、感性的なそれであったとしている。いずれにしても、ディキンソンの変化と驚きに富んだ奇妙な詩が支持を集めたのは、トーマスの卓越した知性があったがゆえである。
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