エスパニョール時代
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2009年6月22日、横浜F・マリノスなどのオファーを断り、スペイン1部リーグのRCDエスパニョールへの移籍が決定した。Goal.comが報じたところによると、「日本人ミッドフィルダーには大きな期待が寄せられたが、スペインでの最初のシーズンはうまくはいかなかった」。マウリシオ・ポチェッティーノ監督は中村がエスパニョールで本来のプレーをすることができなかった理由として、「適応」(西: adaptación)を挙げた。セルティック時代の恩師ゴードン・ストラカンが監督を務めるイングランド2部所属のミドルスブラFCよりレンタル移籍のオファーを受ける。しかし、2部への移籍となることなどから中村本人が移籍を拒否、代理人が説得へ向かうも中村が拒否したことで、エスパニョールに残留することとなった。2010年2月28日、かつて所属した横浜F・マリノスに移籍が決まった。後の2021年に「スペイン・リーグが一番難しい」「アジリティ、戦術理解度、フィジカル能力が高い。ずる賢いし、ハードワークしなければならない。全部が備わっている」と回顧し、「日本人にはオススメできない」「上手くなるし、自信もなくなるよ」としながらも、「乾君は凄いと思う。自分の地位、同じクラブで左サイドのポジションを確立して、ずっとレギュラーを獲り続けたというのは、プレーもそうだけど、みんなから一目置かれる人間としての器も大きかったんだと思う」「もちろん、乾君みたいにうまくいくこともあるし、久保君みたいに若くして行って、揉まれてという成功もあるけど、試合に出られなくても、2部であったとしても成功だと思う。」とラ・リーガでプレーする後輩を称えている。「俺は半年しかいられなかったけど、一番濃かった。得るものはあった」と話した。
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