エイケンサイドとの友情
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「ジェレマイア・ダイソン」の記事における「エイケンサイドとの友情」の解説
ジェレマイア・ダイソン(Jeremiah Dyson、1730年没)の息子として、1722年頃に生まれた。父は(ホレス・ウォルポールによると)仕立屋だったが、多額の遺産を残したという。早くから極端なホイッグ主義(英語版)の傾向を示し、1740年にリンカーン法曹院に入学し、エディンバラ大学に2年間通った後1742年10月4日にライデン大学に入学して民法学を学んだ。1744年にライデンでマーク・エイケンサイド(英語版)(後に詩人になるが、このときはまだ医学を学んでいた。2人は以前エディンバラで知り合った)と再会して、一緒に住んだのちロンドンに戻った。1744年にウィリアム・ウォーバートン(英語版)がエイケンサイドの作品『想像の喜び(英語版)』を批判すると、ダイソンがウォーバートンへの公開書簡を発表して反撃した、という逸話もある。 ダイソンは1746年にリンカーン法曹院で弁護士資格免許を得て、庶民院で下級書記官(subaltern clerk)として就職した。エイケンサイドは短期間ノーサンプトンに住んだ後ハムステッドに移り、ダイソンもハムステッド近郊で邸宅を購入した。2人は物腰も風格も全く異なり、共通点と言えば自由主義支持ぐらいだったが、仲はかなり良好であり、エイケンサイドが開業に失敗するとダイソンはブルームズベリー・スクエア(英語版)にある小さな家屋を贈与したばかりか、エイケンサイドが自分で生計を立てられるまで300ポンドの年金を与えたほどだった。エイケンサイドは1767年12月付の遺言状で遺産をダイソンに与え、1770年6月に死去した。
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