ウズベキスタン共和国におけるティムールの評価
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「ティムール」の記事における「ウズベキスタン共和国におけるティムールの評価」の解説
ロシア革命期にティムールはトルキスタンのナショナリズムを象徴する英雄に祭り上げられたが、スターリン時代にティムールの理想化は禁止され、「抑圧者」「破壊者」としてのイメージが強調される。ティムールとチャガタイ語をシンボルとしてトルキスタンの歴史・文化的一体性を主張した知識人は、「汎トルコ主義者」「民族主義者」の烙印を押されて弾圧された。サマルカンド2500年祭が開かれた1968年、歴史家のイブラヒム・ムミノフは記念事業として『中央アジアの歴史におけるアミール・ティムールの役割と位置』を刊行するが、それまで勤めていた研究職を解任される。その理由として、衆目を集める行事の中で、ウズベク人であるムミノフがウズベク・ナショナリズムの英雄とみなされる要素のある人物を称賛したことが挙げられている。ソ連史学界では、ティムールとティムール朝に対して概して否定的な評価が下されていた。 ウズベキスタン共和国が独立した後、ティムールは民族と国家を象徴する英雄として復権を果たし、1993年に首都タシュケントアミール・ティムール広場のマルクス像に代えてティムール像が設置される。1996年には生誕660周年を記念してユネスコの協賛で大規模な祝典が開かれ、タシュケント、サマルカンド、シャフリサブスで式典が開かれた。同年にアミール・ティムール博物館が開館し、グーリ・アミール廟やビービー・ハーヌムなどのティムールにまつわるサマルカンドの歴史的建造物が修復された。現在、ウズベキスタンで発行されている500スム紙幣の裏面にはティムールの騎馬像が描かれている。また、ティムールはウズベキスタンの伝統的な格闘技であるクラッシュの保護者と見なされている。 しかし、16世紀初頭にティムール朝を滅ぼしたシャイバーニー朝は「ウズベク」を自称する遊牧民族の国家であり、「ウズベク人」の区分と「名称の由来」を直結させると、ティムール朝を滅ぼした集団の名前を冠する民族がティムールを称賛する矛盾が生じている。ティムールを「現在のウズベキスタンで生まれ育ち、サマルカンドを首都として大国を建設した」ウズベク人とみなす観点は、旧ソ連の史観から継続する観点である。
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