ウズベキスタン共産党
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ウズベキスタン共産党 Коммунистическая партия Узбекистана Ўзбекистон Коммунистик партияси | |
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創立 | 1925年 |
解散 | 1991年11月3日 |
後継政党 | ウズベキスタン人民民主党 |
政治的思想 | 共産主義 マルクス・レーニン主義 |
政治的立場 | 極左 |
公式カラー | 赤 |
党旗 | |
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ウズベキスタン共産党 (ウズベキスタンきょうさんとう、英語: Communist Party of Uzbekistan、ロシア語: Коммунистическая партия Узбекистана、ウズベク語: Ўзбекистон Коммунистик партияси) はウズベク・ソビエト社会主義共和国 (ウズベクSSR) を統治していた共産党であり、ソビエト連邦共産党の支部の一つである。
ウズベキスタン共産党の歴代第一書記
- ウラジーミル・イワノフ (1925年2月12日 - 1927年)
- クプリアン・キルキシュ (1927年 - 1929年4月)
- ニコライ・ギカロ (1929年4月 - 1929年6月11日)
- イサーク・ゼレンスキー (1929年6月 - 1929年12月)
- アクマリ・イクラモフ (1929年12月 - 1937年9月21日)
- ピョートル・ヤコフレフ (1937年9月21日 - 1937年9月27日) (代行)
- ウスマン・ユスポフ (1937年9月27日 - 1953年4月7日)
- アミン・ニヤゾフ (1953年4月7日 - 1955年12月22日)
- ヌリトディン・ムヒトディノフ (1955年12月22日 - 1957年12月28日)
- サビル・カマロフ (1957年12月28日 - 1959年3月15日)
- シャラフ・ラシドフ (1959年3月15日 - 1983年10月31日)
- イナムジョン・ウスマンホジャエフ (1983年11月3日 - 1988年1月12日)
- ラフィク・ニシャノフ (1988年1月12日 - 1989年6月23日)
- イスラム・カリモフ (1989年6月23日 - 1991年11月3日)
1991年8月、ウズベキスタン共産党はウズベキスタン人民民主党へと改名した[1]。
関連項目
脚注
- ^ “カリモフ大統領プロフィール”. 日ウ投資環境整備ネットワーク. 2013年3月14日閲覧。
ウズベキスタン共産党
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「ウズベク・ソビエト社会主義共和国」の記事における「ウズベキスタン共産党」の解説
1924年10月、ウズベキスタン共産党中央委員会組織局が創設された。1925年2月、ウズベキスタン共産党第1回設立会議が行われ、中央委員会が設置された。 1925年、ウズベキスタン人民委員会議議長にブハラ族の代表ファイズッラ・ホジャエフが任命された。彼はモスクワの特別な信任を得ていたが、部族間の勢力均衡のために、1929年にタシケント族を代表するアクマリ・イクラモフが中央委員会第一書記に、フェルガナ出身のウスモン・ユスポフが中央委員会書記に任命された。 ソ連時代に連邦当局は、人事政策によりウズベキスタンの部族集団のバランスを維持した。この際共和国の党指導者の交代は、一定の氏族に有利な人事異動を伴った。タシケント族とサマルカンド族に支えられていたシャラフ・ラシドフ第一書記の死後、ウズベキスタンにおける指導的立場は、フェルガナ族のイナムジョン・ウスマンホジャエフ、後にラフィク・ニシャノフが占めた。この際両者はマフィア及び汚職対策において、ラシドフが任命した者達の迫害に遭った。 1989年6月に失脚したニシャノフと交代で、イスラム・カリモフが第一書記となった。
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