ウクライナ独立後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 06:11 UTC 版)
「V・O・マールィシェウ記念工場」の記事における「ウクライナ独立後」の解説
マールィシェウ工場の100万平方メートルの敷地で、1991年800台の戦車が作られた。しかし、パキスタンへT-80UD戦車を320台販売するという契約を6.5億ドルで結んだ時、ソ連から分離後であったため苦渋に耐えるしかなく、1996年まで46台の戦車のみしか製造できなかった。これは、ソ連に配置された軍需工場はその一部の工程をロシアの工場に依存していたためで、この契約を満たすことは困難であった。これを受けて構成部品の完全な国産化が至急の命題となった。また、ロシアの政治的な妨害が地方の成長を阻害し、T-84戦車の設計にも影響を与えた。 他のウクライナの工場と異なり、マールィシェウは外国政府と直接接触し交渉することは許されていなかった。これに代わる部門が、政府の武器輸出入会社であるウクルスペッツエクスポールト(英語版)であった。1999年7月マールィシェウ工場は輸出業に関する関係を否定したが、この年の11月にレオニード・クチマ大統領の命令によって、輸出に関する権利を得た。これは、ハルキウ州の選挙を考えての動きであった。マールィシェウ工場はウクライナ装甲車両(Ukrainian Armored Vehicles)と呼ばれる、輸出の企業で形成する組合34社の代表となった。 マールィシェウはトルコ、ギリシア、マレーシアへ主力戦車ヤタハーンのデモをおこない、中国製の アル・ハーリド戦車のエンジンの供給も行なった。2000年9月には、アラブ首長国連邦のソ連製の戦車や装甲兵員輸送車(APC)の最新化に関しての契約を行なった。マールィシェウ工場はポーランドの農業コンバインの製造会社であるビゾン社(Bizon)部品の供給を行なっている。
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