インフレと賠償
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 07:43 UTC 版)
第一次世界大戦はスチンネスの国際貿易に当初こそ甚大なる影響を与えたが、ドイツ・ルクセンブルク鉱業会社は軍需物資の供給者となり、同業他社をつぎつぎと吸収した。スウェーデンとの貿易は継続し拡大した。フーゴーは現在のハパック・ロイド社と関係がある。戦中にハパックの監査役になったのである。積荷の練炭は数社を買収することで確保した。フーゴーの戦略は、インフレ経済だから借金をして物的価値を貯めこもうというものであった。ヴェルサイユ条約によりハパックをふくむドイツ企業は財産を接収された。スチンネスのドイツ・ルクセンブルク鉱業会社は、南西部の全企業を喪失し、鉄鋼と石炭の供給を絶たれた。挽回の第一歩としてゲルゼンキルヒェン鉱業(Gelsenkirchener Bergwerks-AG)と80年間の協業契約が結ばれ、親会社(Rhein-Elbe-Union GmbH)も設置された。1920年にボフーム鉱山鋳鉄会社(Bochumer Verein)を買収した。借りて買って、それを担保に入れての繰返しで、スチンネスは同年シーメンスまで傘下に収めてしまった。 フーゴーは同1920年のスパの石炭会議へ専門家として派遣されたが、その席上でフランスの要求を撥ねつけた。ヴァルター・ラーテナウの暗殺されるまで、フーゴーは一切の妥協を拒んだ。この後ヴィースバーデンでフランスと協定を結んだ。フランス再建のために賠償物資を引き渡す契約であったが、当初は価格決定をドイツ鉱業会社が統制していたものを、個々のドイツ企業家が直接にフランスの復興官庁と、賠償勘定を使って自由な引渡し契約を結ぶことができるようにしてしまった。スチンネスも参加して非常に儲けたので、賠償問題にあまり反対しなくなった。ルール占領のときに契約は中絶してしまったが、フーゴーは石炭輸入業者として脚光を浴びた。ライヒスバンクぬきで外国為替を獲得し、フーゴーはイギリスから石炭を買った。マルクは下落した。1923年10月、フーゴーはデュッセルドルフでフランスの強硬な要求を飲まされた。すなわちアルベルト・フェーグラー(Albert Vögler)がライン・ウェストファリア石炭を代表して工場鉱山統制協同委員会(MICUM)と供給協定を結んだのである。 1924年4月10日にフーゴーは死亡し、王族のように手厚く葬られた。
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